手すりに指を滑らせながら螺旋階段を軽やかに下って、一縷は正面ホールに下りた。パラノイドの店内は、豪奢なホテルのような内装をしている。築六十年、木造建築二階建ての古い建物だったが、木の艶はうつくしく、陽光を反射する様などは詩的で一縷は好きだった。
フロントに目を遣るが、そこに店長の姿は無い。想定通りだ。フロントの奥、開け放してある扉の向こう、応接間へと視線を向ける。そこには煙管の煙を燻らせる香屋埜が座って居た。
正面の扉を開けて入ってきた客が最初に目にするのが空の受付では商売にならないのではないか、と一度進言したことがある。しかし、店長の香屋埜は一縷の常識的忠告を一笑に付した。そんなことで閑古鳥が住みつくようならこの職業など成り立たない、というのが彼女の言い分だ。彼女は真面目に話すつもりがないのか真面目に考えるつもりがないのか。しかし彼女の先代の時分からこうだったとも聞くからこの店が狂っているのかもしれない。
つまり、それだから、今日も今日とて、彼女は煙草を呑みながら光合成に耽っている。
一縷は、口を開いた。
「店長」
相変わらずハスキーな声だと、我ながら思った。
「きみの声は低いから、この距離では聞き取りづらいよ。話をするなら、もっと、近う、寄りたまえ」
閉口したが、一縷の声が低いことは確かなので(たった今自分でもそう思ったのだから)、黙って香屋埜の側へと近寄った。
ゆったりとした一人がけのソファに座って、深々と日光を浴びる香屋埜はまるで植物のようだった。彼女の今日の服装は、また一段と昭和初期のおじさんみたいである。カッターシャツに灰色のベスト、灰色のジャケット、灰色のスラックスというグレイスケールのファッション。長く艶めく墨色の髪を流れるままに胸に流し(その曲線は間違いようもなく豊満である)、白く細い手は無造作に肘掛けに置かれているが、指輪のひとつもつけていない。細い目が特徴的な顔は美人と称せるつくり、化粧はしていない。
彼女は、男装の麗人でありたい、と常々言っている。女性的な雰囲気を醸し出しつつも、服装や口調など、外装は確かに男性らしい。男性を装いたいわけでも女性を隠したいわけでもなく、ただ、男装した麗人でいたいのだ、というのが彼女の主張であった。拗らせている。
香屋埜は、もう一服煙を吐いてから、煙管をそっと煙草盆に置いた。吸口の真鍮が陽光を受けて煌めいた。
その細い目がようやく一縷を向いた。
「どうしたのかな」
「店に用事のあるお客さんが、人間椅子で15時半に待っているようです」
「おや、きみの仕事は電話番ではなかったと思ったが」
「紫機から、メールで……詳細とか、何もないんですけど」
「ああ、紫機流かぁ……あいかわらずよくわからないことをする女だなあ」
香屋埜は、目を瞑って、数秒考え込んだ。
香屋埜とて、紫機のことを言えない程度にはよくわからない女だと思う。
などと口に出したら、面倒なことになるに決まっていた。一縷に多大な影響を与える叔母の紫機流の発言のわけのわからなさと言えば関係各所の御墨付だが、その紫機流と学生時代からやりあってきた香屋埜他数名の女達の鍛え抜かれた舌鋒といったら。
入れ子式の思考を渦巻かせながら、一縷はぼうっと陽光を浴びる香屋埜の髪を見つめた。
「うーん」
香屋埜は、煙草の煙を吐き出すようなテンポで息を吐いた。
「行こう。じゃあ、一縷くん、きみもついてきてくれたまえ」
「わたしもですか?」
机の上の帽子掛けからキャスケットを手に取りかぶった香屋埜は、立てかけてあった杖を手に取った。
香屋埜は、右足が義足であった。
「そうだよ、きたまえ」
「はあ……そういうのは、佐々木に頼んだ方がいいのでは?」
佐々木というのはパラノイドのボランティアスタッフである。給料を貰っている一縷よりも彼の方が多く働いている気がするのはきっと気のせいではないだろう。当然ながら一縷よりは接客が巧い。
「今ここに佐々木が居るかい? 一縷くん」
確かに今日は来ていないようだった。
そんなことは承知しているのである。
一縷は食い下がる。
「わたしの仕事は、自炊では」
一縷は人嫌いである。メンヘルだろうがパンピーだろうが等しく接したくない。
断る言葉を重ねようと口を開くと、香屋埜がすっと一本指を立てた。
「特別手当を出そうかな」
「はい、やります」
一撃必殺。
「若い子は現金でいいねぇ」
「ええ、まあ……地獄の沙汰も、なんとやら……言いますでしょう」
「あはは」
香屋埜は、楽しげに笑った。一縷は表情を変えなかった。
© 2008- 和蔵蓮子