一縷と香屋埜は、蝋梅通りにある雑居ビルの廊下を、その最深部に向けて歩いていた。外は薄く汗をかくくらいに暑かったので、ここまではタクシーに乗ってきた。香屋埜は車を持っているのだが、彼女が運転を嫌うためほとんど観賞用と化している。一縷は運転免許を持っていない。
こつ、かつ、こつ、と、足音が変拍子で響く。
香屋埜は黒い革靴を履いているし、杖をついている。一縷も底の固いミリタリブーツを履いているので、静かな廊下にはよく響く組み合わせだった。
人間椅子は、一縷がよく利用する喫茶店である。加えて市街地、比較的わかりやすい位置にある。だから紫機流はここを指定したのだろう。特徴として、マスターが江戸川乱歩の小説から引用した言葉しか喋らないという点が挙げられるが、日常会話には困ったことがない。乱歩の語彙が豊富なのだろう。
江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポーはどのような関係にあるのだろう。乱歩の小説は嫌いではないが、耽溺するほど好んでもいないので、昔から気になるその謎は謎のままである。
そもそも、一縷は無趣味であった――より正確に言うならば、自覚的に趣味を持たないようにしていた。この趣味人の島において、趣味という言葉の軽さと途方も無さといったら考えるだけで厭気が差す。有り余ったコンテンツ、その取捨選択にかかるエネルギィ。
好き嫌いより、好きじゃない嫌いじゃないという風に考えて、色褪せてゆく、余生のように暮らすのが最も気が楽なのだ。
こうして言葉にして考えると、曖昧に広がってゆく思考が視界が限定されるようでもったいないような気分になる。
情報と想像とコンテンツの海に漂うのに、嗜好性という錘は要らないのだ。
茫洋とした気分で、一縷は空を見つめた。
しかし、こうして嗜好性を排他しようという意思が、そも、一縷の求める模糊とは真逆にベクトルが向いているような。
「一縷くん、思考のるつぼに嵌っているね」
「え?」
不意を突かれた一縷は、左側を歩く香屋埜を向いた。
首を傾げる。
「思考のるつぼ」
「うん」
香屋埜は、上機嫌に頷いた。
「言葉は矛盾するためにある」
こつ、こつり、かつん、こつ、こつり。靴音が響く。
また何か言い出したな、と思ったが、一縷は一応頷いた。相槌である。
「はあ……そうかもしれませんね。だから、喋るのは、あんまり好きじゃありません」
「矛盾が嫌いかい。けれど、その不快感を拭いたいと思うなら、より正確にいるために、言葉を上手に操った方が有意義だ。道具として使いこなすんだ。キミには練度が足りていないように思えるね」
「はあ……」
それはなんか嫌だなと一縷は思った。やはり、真逆だからである。
「つまり、もっと人と接した方がいいと思うわけだ。もっと他人と喋りなさい」
「うん……」
一縷は、傾けていた首を前に落とした。それに追随して、さらり、髪留めからほつれた髪が胸に落ちる。鬱陶しいが、髪も考えも、纏める技量は一縷には無い。
向上心も、あんまりない。
人の話も、聞く気がない。
一縷は、曖昧な声を上げた。
「あんまり、うなずけないお話ですが」
「まあ、そんなだから書庫整理なんて気が遠くなるような仕事ができるわけだね。人との会話スキルを投げ捨てて、人間以外と対話する技能を手に入れているのかもしれない」
「それ、書庫整理が苦手ないいわけですか?」
「うん、まあ、そう受け取ってもいいがね」
香屋埜は、指先で自分の髪を弄んだ。彼女は緻密に情報を書き記すことができる人物だったが、それをまとめたファイルの管理は杜撰極まる。一縷がパラノイドに来た頃なんか、書棚が書棚としての機能を果たしていなかった。横置き縦置きが横行する書棚を一掃し、ファイルを整頓して、書庫に収めなおしたのは一縷であった。
「まあ、キミは、欠落しているということだ。諦めるにはね」
「……?」
「うん」
香屋埜は、立ち止まった。
一縷も、同じく立ち止まる。
ああ、ようやく拍子が揃ったな、と思った。
目の前には、人間椅子の扉があった。
「着いたね」
© 2008- 和蔵蓮子