群青




C01-A001
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 ギィと足下の板が軋んだのを、内心で少し気にした。
 一縷は、年季の入った両開きのガラス窓からさしこんだ陽光に目をすがめた。
 日が傾くのが早く感じる。
 まだ昼過ぎと言える時間であったが、その陽光は、羽虫を焼き殺す花火のようなまぶしさを放っていた。日の出ている時間帯は半死人状態の一縷にはまぶしい。
 ともかく。
 自分の本来の目的を果たすべく、アルバイト中の一縷は、部屋中に聳える作りつけの書棚とそこに陳列されている分厚いパイプ式ファイルの中から、紙がいっぱいに挟み込まれている二冊を選んで手に取った。重さがやはり腕にくる。バイトを始めて八ヶ月経つも、この重量には未だ慣れず。もとより、箸より思いものをあまり持たずに暮らしていたものだから、こういう作業には特に免疫がないのだった。
 五歳の頃から病院暮らし。十七の時に退院し、二年が経って、今である。
 入院生活は退屈であった。人と接することが嫌いな一縷ですら、同じく入院している患者との会話が趣味染みてしまうほどの圧倒的・退屈。
 退院を機にその退屈から解放された一縷には、いまさらになって、学校で新たに人間関係を築こうというつもりが絶無であった。おなかがいっぱいである。人生の中で一番多くの割合をメンタルヘルス科の入院患者という濃い人種とつきあってきたのだ。
 いちおう転入という形で入った私立の女学院へは不登校という態度を続けている。一才違うと行きにくい。いや、言い訳のひとつだけれども。
 代わりというわけではないが、この胡散臭い零細職種のアルバイトを始めたのは、多少なりとも社会と接しておこうという、一縷のせめてもの譲歩のようなものだった。
 それが果たして他人の基準の中で代替として機能するかどうかは知らないが、少なくとも一縷の中ではアルバイトと学校の比重は同じくらいであるから、メンタル的には無問題である。どちらかと言えば、バイトの方が重い。だからサボらない。
 自分がファイルを抱いたまま物思いに耽っていることに気がついた一縷は、臙脂色の表紙に視線を落とした。そこに糊付けされた薄い紙に書かれているタイトルを二つ確認し、それが自分の探していたものだと判じて、書庫を後にした。

 探し屋、パラノイド。一縷が八ヶ月前からアルバイトをしている零細企業はそういう名前の店だった。
 探し屋と聞くと一風変わった職種に思えるが、要するところは案内業である。一縷の住む肆戸島ではわりと普及している仕事であった。どこを案内するかと言えば、肆戸島では唯一とも言える観光スポットの「偏執市場」である。
 趣味人、マニア、コレクタ。それらは、どれも一概にすべきではないが、ただ、一貫して、顕示欲を持つ傾向にある、というのはここの店主の言である。
 偏執市場について、どういう成り立ちであるのかは定かには知らない(あるいは、一縷がこの島の小学校に通っていたならば習ったり調べたりしたのかもしれないが、入院していた一縷にその機会は与えられなかった)。
 とにかく、雑多に膨大に集まった趣味人の巣窟、そこに何かを求める人が、目当てのものを探し当てる――のを、補佐するのが、我が店、探し屋パラノイドだった。店名からして客を舐めきっているように思うが、不思議と客足は途絶えなかった。実際に働いてみると、百科事典の目次のような職業だ。案内所とも言い換えられる。市場は夥しい数の建物が層をなして固まっている立体構造物であり、しかも店の並びに規則性がない。1930年代アメリカ産アンティークランプ店と老若男女全人種混血含ム尺骨模型取扱店が当然のように並ぶ市場を歩いて探そうとすれば気が狂いそうになってくるから、需要のある仕事ではあるのだろう――と一縷は思う。
 そんな案内屋のような店で、しかし一縷の契約内容は資料の自炊であった。書庫に収められた膨大なアナログ資料を電子化する作業だ。
 一縷が地道に電子化している資料は、最先端を限界突破した好事家どもをカテゴライズし、その分布や現在地などをまとめたものだ。一縷がここにくる前はそれを全てこのパイプ式ファイルを使ってアナログで管理していたらしいので、ここの店主も他の例に違わずどうかしているのだ。資料の大半は店主が万年筆の手書き文字で綴っているので、たまにその解読が困難を極めることもあった。
 
 自分の作業室に戻り、叔母の同僚に組んでもらった巨大な(百七十センチある一縷より少し低いくらいの)タワー型コンピュータの電源スイッチを入れ、ファイルを作業用デスクに置いた。このパソコンは、メモリの容量がテラ級だとかなんとか、そういう話を聞いたような気もするが、聞き流したので思い出せない。ともかく、店長が書き掻き集めた膨大な資料をインプットするのに足るくらいの大容量メモリを積んでいることは確かだ。それにしたってこんなにでかい必要はないが。真空管がついてる必要だってないが。
 そのとき、ヴヴと携帯が振動した。
「あ?」
 ポケットから携帯端末を取り出して数回の操作を繰り返し、画面を確認すると、メールが届いているようだ。メール管理ソフトを起動すると、受信先は叔母のアドレス。本文にはいつものようにソースコードのような文面が表示されていた。

 >1530;人間椅子;パラノイドの客;

「また、急にそういうことを……」
 いやがらせか?
 一縷は左手首に巻いているごつい軍用時計に視線を落とした。
 現在時刻は14時33分。
 喫茶店の人間椅子までは移動に45分ほどかかるから、そろそろ出なければ間に合わない。一縷は作業デスクのファイルを一瞥して軽く息をついてから、折角立ち上げたばかりのパソコンの電源を落とした。



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