当然暖房などないから、澄んだままでいた空気が気持ちよかった。
階段を一番上まで昇りきると、屋上につながる扉の窓から差し込む光に目が眩んだ。
「うあ」
カーディガンの袖で目元を覆い、陽の光の当たらないところに滑り込む。
屋上前のこのスペースは、入学当初から貴臣とその知り合いが数名たむろするのに格好の空間だった。
スチール製のロッカーが一つに、使われていない机が四つ、並べられている。そこに椅子は無かったが、学校の椅子は座りづらいので別にあろうとなかろうと構わなかった。
貴臣はロッカーと机の間の空間に腰を下ろした。狭いスペースはとてもしっくりと躯に馴染む。貴臣のために用意されているようだった。目を瞑り、玉座に座った心持ちで壁に寄りかかり、膝を抱える。
ネクタイが首を締めてくれているのが少し窮屈で気持ちよかった。
貴臣をこれまで散々苦しめてきた体質のせいでこんなのが気持ちいいのかもしれないとちょっと思った。この分だと手首を切っても気分は悪くなさそうだ。もう想像するまでもなく、そんなことをしたら自分の世話役を買って出ている數名の大人が血相を変えて心配したり血相を変えないまま心配したりして鬱陶しいに決まっているので絶対しないが、――ああ、この窮屈は気持よくない。人に心配されるのはただ重みが増すようで、好きじゃない。面倒くさい。
しんと静まり返った廊下の向こうを、誰かがかつんかつんと歩く音がした。
生徒の靴音ではない。
こっち来んなよ、と思いながら貴臣は膝を抱く腕を強くした。
足音が遠ざかったのが確かになってから、貴臣ははあっと息をついた。
屋上は二年前の飛び降り事件のせいで封鎖されており、屋上以外へ繋がらないこの場所へ通じる階段も普段から使われていない。飛び降り事件の影響かそれから派生した別の怪談の影響か、南棟の屋上の扉に触れた生徒は受験に落ちるなんていう局地的な都市伝説まで発生していて、貴臣たち以外の生徒はこの場所に近寄りもしない。
貴臣たちがいるから近寄りがたいのだ、という説もある。
まあ、例外的に、貴臣とつるんでいる五味市倉という生徒に近寄りたいという生徒は結構居る――かもしれない。あれは一見真面目そうだし、加えて中等部の生徒会長でもある。中身に関しては、ストレートに表現すると後から気分が悪くなるから言いたくないが、まあ貴臣とつるんでいるようなやつなので、お察しというところだ。あと少数派に、貴臣や桐伍に近づきたいなんていうアブノーマルな奴もいるかもしれないが、少なくとも貴臣はそういう女も男も嫌いである。寄ってくるやつは邪魔でしかない。
とにかくここは人が来ないから落ち着くのに、邪魔しに来るのがよりにもよって大人だなんて、台無し感がこの上なさすぎる。最悪に近い。
落ち着くために数回呼吸を繰り返し、貴臣ははああっと深い溜め息を吐いた。
馬っ鹿らしい。
馬鹿らしい。
最近はこういうことばかりだった。
自分が居る場所がどんどん少なくなっていくようで、それが煩わしくてしょうがないのに、何もかも放り捨てるにはそのすべてが貴臣の体に根を張っているような気がして。
ああ、気持ち悪い。
呪うように吐き捨てて、貴臣は目の裏の残像に意識を沈めた。
「貴臣」
名前を呼ばれて、目が覚めた。ただ目を瞑っていたつもりだったが、以下省略。視線を上げると、昼食を持った知り合いが二人立っていた。付き合いの年数を考えれば両方とも友人と呼ぶに足りるのかもしれなかったが、その言葉の気安さが気持ち悪くてそんな呼び方をしたことはない。言ったときするであろうものすごく厭そうな顔が簡単に目に浮かぶ。貴臣だって嫌である。せっかく整っている自分の顔をわざわざ歪ませたくはない。
染めていない黒髪の市倉と、痛んだツートンの茶髪である桐伍が並んで立っている様を見れば誰だってアンバランスだと言うだろう。そしてそれに自分の白髪が加わって三人で立っているところなんて、輪をかけて目立つのだと思った。桐伍くんは中学生のくせに髪の色で遊びすぎではないだろうか?
「このサボり魔が、何のために学校来てんだ、死ねっ」
言いつつ投げつけられたトマトジュースをぱしんと受け取って、貴臣はわざとらしくかわいい声を出した。
「出席日数のためぇ?」
「ざっけんな、死ねッ」
生真面目に怒鳴って、桐伍は貴臣から離れた壁の前にどっかりと座った。こいつは初対面から貴臣の性格が気にくわないとかなんとか言って、いきなりぶん殴ってくるような頭のおかしい奴だった。相当むかついたので手近な椅子で殴り返したら周りの大人が止めに入ってきたので貴臣たちはそいつらを先に片付けることにしたのだが、その騒ぎがなんだかだんだん大きくなっていって、半ば崩壊していた茶会が完全崩壊しそうになったところを市倉が綺麗にまとめたりとかなんとかして、以来、貴臣と桐伍の勝負の舞台は舌戦に移ったのである。そうなると喋るのが面倒で喋った側からその言葉が嫌惡感となって纏わりついてくる貴臣には不利であり、最近ではもうこいつと喧嘩はあまりしない。する気がない。けれど、初対面の時に思ったよりも生眞面目な質だった桐伍は貴臣が何か適当なことを言うたびに細かくどやしつけてくるのだった。俺の喋ることなんて九分九厘適当なことなのによくやるなーと思うあたり、効いていないのに多少不憫さを感じるほどである。
椅子で殴りあっている時は結構楽しかったのだが、それが封じられてからは貴臣の興味は桐伍には向いていないのだった。
こうして付き合っているのも惰性と義理と政治である。桐伍と市倉だって同じようなものだろう。
自分たちは、この閉塞した北の島の、内側に向いた家同士の勢力図の中、同じような立ち位置にいるのだった。
好き好んで寄っているわけじゃない。
友情よりは同盟に近い。自分の領土も守れない、貧弱な盾と必死に空転する頭しか持ち合わせていない空しくて中身の無い同盟だ。
「まあ、出席日数気にしてるだけいいんじゃない」
取りなすように笑って、市倉は貴臣と桐伍の中間あたりに席を取った。
トマトジュースのパックが貴臣の手を冷やす。
この液体よりも自分の体温のほうが高いのだ。冷えているということは、わざわざ購買で買ってきたのだろう。
それも少し気持ち悪い。
市倉は、でもね、と続けた。
「え?」
何につながる「でもね」なのかわからないんですけど。
会話のログをたどりながら、内心で顔を歪める。市倉がこの声を出すときは大抵こじれたことを言い出すときだからだった。
「あの出て行き方はちょっと無いと思うなぁ。千春ちゃん泣きそうな顔してたし、面目潰しすぎだよね」
「千春ちゃんって誰ぇ?」
「理科の先生。さっきお前が無礙にした」
「ああ、あの人ね……千春ちゃんっていうんだ」
真面目なことはいいことですねと思いながら貴臣はストローを押し出して、銀色の円の部分に突き刺した。
「あの人、何でわざわざ声かけてきたの?」
ストローを咥えて、どろりとした液体を飲み下す。連鎖反応のように思い出すのはやはりあの液体のことだったが、嫌がると桐伍がしてやったりと喜びそうだったので顔色は変えない。
「今月から赴任してきた先生だから」
コンビニのおにぎりを囓りながら、市倉はそう答えた。
「お前のこととか知らないんでしょ、まだ」
「ふーん」
ストローを噛んで、貴臣は生返事をした。
「結構僕のタイプなんだから、いじめないでよね」
まじめくさってそう言う市倉を見遣って、貴臣はあれ、と首を傾げる。
「お前、いじめられてる女が好きなんじゃなかったっけ」
「違うよ。好きなタイプの女の子が追いつめられてるのが好きなの。いじめられてるのが好きなわけじゃない。で、追いつめるのは僕がいい」
「うわ、気持ち悪……、変態かよ」
「お前に言われたくないなぁ。こないだ見た人形展に感化されてわざわざ製作キットまで購入しちゃったくせに」
「ああ」
先日肆戸美術館の特別展示で人形展を見に行った。世話役の一人からチケットを貰ったのだが、二枚余っていたのでこの二人に声を掛けたのだ。こいつらは貴臣と同じくまともな人間関係なんか持たないので、こうしたイベントに誘えば十中八九来る。
「まあ、あれは、ちょっと良かったけど」
ガラスケエスの中に座る陶器で出来た少女達は、貴臣の目には人間の少女よりずっとずっと好ましく見えたのだ。アクリルの壁に阻まれて、触れることはできなかったけれど、触ってみたらきっと貴臣よりも冷たいのだろうし。きっとあれは、貴臣の手を冷やしたトマトジュースよりも冷たいのだ。
冷たいものが好きなのかもしれない。どうしてだろうか?
涼しいからかもしれない。
生身の体は涼しくないのだ。
貴臣は首を傾げて、二人に視線を戻した。
「俺さあ、生身の方が気持ち悪いと思うんだけど? ねえ桐伍くん、俺知ってんだよお前も同じタイプだよ、ね? そうだよねぇ?」
話を振った先の桐伍は焼きそばパンをちょうど口に含んだところで、タイミングが悪いと言いたげに眉を顰めた。
「桐伍くん聞いてるぅ? 耳悪いの? 桐伍くんも人間より人形の方がすきだよね? 毎日等身大の人形ばっかり見てるもんねぇ、名前なんて言うんだっけ、あの教会の奧の子さ」
せいぜい煽るように囁いたつもりだったが、桐伍は黙って口をもぐもぐさせるだけだった。つまらない。ここに居る連中の中では一番粗雑なくせに、一番行儀にうるさいのも桐伍だから、口の中のものが無くなるまでは喋らないだろう。
あーあ。貴臣はストローを噛んだ。煽ったんだから乗ったらいいのに、つまんない。ああ、まあ、何を模して選ばれたのかもわかっているくせにトマトジュースに無反応だった貴臣が言えた口じゃないけれど。じゃあいいか。っつーかトマトジュース選んだのどっちだよ。桐伍だとしたら頭回ってんなーぐらいだが、市倉だとしたら相当千春ちゃんのことが腹に据えかねていると見える。桐伍が選んだなら止めなかった市倉性格悪ィな、そんで市倉が選んだとしたら桐伍は気づいてねーんだろうな――
んー、と伸びをする。
「このまま、午後もサボっちゃおっかなあ?」
「いけません」
おにぎりのゴミを片づけながら、市倉は笑った。抗いがたい雰囲気ではある。
「けち、生徒会長ぉ」
「悪口じゃないね」
これもついでに捨てといて、と市倉のゴミ袋に紙パックを突っ込みながら、貴臣は午後の過ごし方を思って小さくため息を吐いた。
「月曜は学食に行こうね」
「何でまた? 人混みが嫌だっつったの、貴臣じゃん」
市倉が首を傾げたので、絶対自分のほうが似合う動作だなと思いながら真似をした。
「トマトジュースに飽きたから」
© 2008- 和蔵蓮子