未必の戀の返りごと

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アンダンテ後篇
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 ほとんど足を引きずるようにして二人に追随し教室へは戻ったものの、貴臣は結局五時間目が終わると共に下校した。六時間目が市倉言うところの千春ちゃんの授業だったからである。
 午後からサボるわ、と言ったときの市倉の断固たる風情に納得がいった。ああ、それでね、という感じ。一回彼女の尊厳回復させとけ、と、そんな感じの意味だったのだろう。
 そんなのごめんです馬ぁあ鹿。
ざく、と水分が流れ出た雪を踏んだ。
 基本的に日中の貴臣の態度といったら、たとえ自宅に居ようと図書館に居ようと学校に居ようと突っ伏すか横になっているかのどちらかなのだ。眠っていないだけで褒められてしかるべき――と、思っているのは身内だけだろうけれど、それにしたって自然体が許されない空間というのは居心地が悪くてどうしようもなく、どうしようもないと吐きそうになるので、そうなると空費した時間ごと投げ出して逃げ出すしかない。教師の反応を気にするような殊勝さをほんの一欠片でも持ちあわせているからではなく、余っている残り中学生活のたった一年間のために千春ちゃんを諦めさせる努力を想像すると疲れてしまう。
 これから千春ちゃんの授業をばっくれつづけるわけにはいかないだろうけれど。
 思いつつも。
 丁度差す日も雲で隠れて、外が歩きやすい天気になったことが後押しになった。

 主要な公共機関や観光スポットが揃った肆戸の中心街から(あのあたりを表現するならば中心街以外に無いのだが、この島には中心街以外に何もないので、貴臣としてはあの場を中心街と称するのに少々の抵抗がある。相対的にも絶対的にも中心であることに変わりはないのが困り所だ)、山手へすこし歩く必要がある。登下校中車で十数分で済むのはこの季節だからで、真冬はもっと時間がかかる。御津藏の屋敷は街に近いところに別邸の真夜中邸が、そして標高がもっと高いところに本邸の静謐邸があり、別邸の中にも本邸と別邸があったりしてややこしいが、貴臣は学期中は街中の真夜中邸内で寝起きしている。
 これから帰るのも真夜中邸だった。雪に縁取りされたアスファルトの上を早足に歩き、無駄に広い屋敷の建ち並ぶ区画でようやく自宅の門に辿り着いた。
 鍵のかかっていない鉄門を自分の体が通れる分だけ開けて、中に入る。
 半ば剥げかけた緑青色の屋根と白塗りの壁。本島にもある銀行などを建てた建築家――を偏執的に崇拜する建築家が建てたこの真夜中邸は、規模はともかくその外見だけはドールハウスのようにかわいらしい。けれどその内部構造といえば、一筆書きではどうあがいても一周できないような構造であり、なんとも胸の内がむかむかとするので、貴臣は普段は裏にある小さい別邸で暮らしている。真夜中邸本邸は世話役や使用人に預けっぱなしである。
 本邸の外周をぐるりと回って別邸に回ると、貴臣は玄關先で自分の第一秘書が第二秘書に正座で説教を食らっている姿を発見した。腰に手を当てているのと、正座した膝に両手を揃えて頭をがっくり落としているのと。うっわぁ、と若干身を引く。関わりたくねぇー。
 キレている方もキレさせている方もキャラメルのような明るい茶髪。片方は染めているが、もう片方はちょっとした事故でこの色に染まってしまったらしい。その頃の話を聞かせろと貴臣は時折言うのだけれど、よほど口にしたくないのかどちらにもかわされてしまう。
 別邸に入るにはこいつらに見つからないわけにはいかない。学校は早退してきている。本邸のベッドの用意が整っているとは限らない。
 数秒間頭を回転させた後に、貴臣は浅く溜め息を吐いた。
「何やってんだよ、お前ら」
 声を掛けると、二人とも、全く同じタイミングでこちらを振り返った。
 柔和な笑みを浮かべた方が、御堂島孝明。貴臣の第一秘書であり、世話役であり、補佐である。
「ああ、臣、おかえりぃ。助かった、こいつなんとかしてよ」
「孝明、当主を呼び捨てにするとはどういった了見です?」
 いらだたしげに口を開いたのは、仁王立ちして説教をしていた方、御堂島の双子の孝枝だった。第二秘書で世話役で補佐。髪は後ろでくるんと縛っている。この女がキレると髪が金魚の尾のようにひらひら揺れる。
「そういうあなたの適当なところが下に伝わって当主の立場が悪くなったらどうするつもりですか? そうなってからでは遅いのですよ」
「知らなかったわぁ、俺の立場なんてあるんだぁ」
 まったくあなたは昔からいつまで経っても、と説教を続けようとした孝枝の言葉を遮ろうとしたわけではなかったが、貴臣がぼそりと呟いた声は彼女の耳にしっかり届いてしまった。
「当主」
 孝枝は苦り切った顔でこちらを睨んだ。礼儀を重んじるこの女にしては珍しく化粧もしておらず、疲れた顔をしていた。徹夜かな、とあたりをつける。
「何」
 答える声がぶっきらぼうになるのは、これから何を言われるかわかっているからかもしれない。
「当主がそれではいけません。何度も言っているでしょう、本人の態度がそれでは私達がどれだけ手回しをしても」
「うるっさいなぁ。はいはいわかりましたぁああ」
「何もわかっておられません。そもそも当主、学校はどうしたのですか?」
 孝枝に尋ねられ、貴臣はにっこり笑ってあらかじめ作っておいた回答を述べた。
「今日は五時間だったから」
「時間割変更でもあったのですか?」
 うわこいつ。
 思わず両手を上げた。
「おまえ、時間割覚えてんの」
「はい、当然です」
「えぇっと……、今日は、体調不良で早退、みたいな」
「どうして車を呼ばなかったのですか」
「歩きたい気分だったしぃ」
「その体調不良も、血液を摂取なさらないからで」
 一瞬だけ思考回路が沸騰する。
「お前にわかるの?」
 ねじ伏せるような声が出た。
 呑まれたように、孝枝が黙りこくる。唇を噛んだ彼女はしかし、くわえていた骨を無理矢理奪われたドーベルマンが反撃を伺うような目つきだ。貴臣の声を聞く気は無い。
 あー、もう、こうやって全部台無しになる。
 貴臣は肩にかけていた重い鞄を思い出したように地面に落とした。人が倒れた時のような音がした。
「気分悪い。部屋帰るから、しばらく誰も近寄んないで」
 言い捨てて、歩き出す。
 背後から御堂島の「あーあ」という声が聞こえた。

 自室へ戻り、群青色のピーコートを床に脱ぎ捨て制服のボタンを外していると、先ほどの孝枝の声が脳裏で蘇った。
『血液を摂取なさらないから』
 すっ、と息を吸い上げて、しかし吐き出す言葉が見つからない。そもそも呼吸が必要ない。無駄な窒素を取り込んだ。
 誰も俺がなんなのかわからないくせに。
 思い出して眉間を顰める。
 初めて口に含んだあの液体の味は今でも覚えている。屈辱の味。どろりとして生臭く、厚みのある舌触り。ひどく気分が悪かった。かつてないほど悪かった。
 御津藏貴臣を吸血鬼と見なす向きが現在主流である――ということを貴臣自身が知ったのは、七年前、五十年の休眠から目覚めて以降のことだった。
 休眠に入る前は神の化身だとか夜の落とし子だとか言われていたのに目覚めてみたらいきなり化け物扱いされており、しかもどうやら自分が眠っている間に血液が抜かれて様々な実験もされた後とあっては、貴臣としては寝てる間に処女を奪われたような感覚である。というか御堂島に発見される前の自分の実験動物もかくやという扱いを考えれば本当に奪われていてもおかしくないような。
 何度も何度も強制されて、口に含んだことはある。しかし嚥下するには至らない。それが吐くほどおいしくない。害がないとは思えない。あれを飲むくらいならば人間の真似をして摂取する食事の方が断然マシで、しかしそれが気休めにしかならないことはわかっていた。人間の食事をする度に体に纏わりつくヴェールのような嫌悪感と屈辱感は的確に貴臣の精神を蝕んでゆくから。
 呼吸のできない水中で、薄い重りを体につけられていくような感覚。どんどん深くに沈んでいくのに、呼吸を必要としない貴臣は死ぬこともできないのだった。
 食事の屈辱は貴臣から空を遠ざけるだけで溺死はさせてくれない。
 首を切られても締められても死なない体でなければとっくに自分は死ねているのに。
 貴臣は、自分を吸血鬼と呼ぶ向きに、別に批判的なわけではない。
 パズルがあれば解いてしまうのも数学が一番得意なのも日光が苦手なのも招かれなければ家に入れないのも夜であれはできないことがないのも全部本当だからだ。
 しかしそうであれば、おそらく貴臣は、血を飲めない吸血鬼なのだろうと思う。
 だから無理に飲ませようとしないでほしい。
 というか放っておいて欲しい。
 貴臣の血から作られた二次的な吸血鬼がすごく便利だから、貴臣がもっとちゃんと吸血鬼らしくなればさらに便利になるのではないかと、顔も知らないどこかの誰かに期待されていることは知っている。
 でも俺関係ないじゃんね?
 制服を脱がないままに貴臣はベッドに倒れ込んだ。羽毛の柔らかさに顔を埋めて、そのままさっき吸い込んだ息を吐き出す。なんで俺がこんな疲れないといけないんだろ。目を瞑る。

「臣、臣ー? 起きてるでしょ?」
 遠くで、御堂島の声がした。
 寝るところだよ、鬱陶しい。
 少ししてから、扉が開いて閉まる音がした。
 貴臣は顔を上げなかったが、御堂島がベッドの縁に座ったようだったので、返事の代わりに僅かに指先を持ち上げた。
「制服、皺になるんじゃない?」
「別にいい」
「あのさぁ、あのババアは関係なくね、俺が頼んでも、臣はやっぱり人の血を飲みたくない? 俺は、臣にこのまま死んでほしくないから、おいしくなくても飲んでほしいよ。孝枝も似たようなことが言いたいんだと思うけど」
「知ってる」
「うん」
「知ってるけどね」
 俺はこんな水底のような生活を続けるぐらいならこのまま死んでしまいたい。
 口が滑りかけて、貴臣はささやかな気遣いからそれを自重した。人を気遣うのも気色悪くて好きじゃない。
「俺は、他人の血を口の中に入れるのなんか死ぬほど気持ち悪いし、それが知り合いのものだったらもっと気持ち悪いし、もう二度としたくない」
「んー……でもさぁ」
「それに」
 貴臣は、御堂島の言葉をぶった切った。
「血を飲んでさ、何も変わらなかったらどうしようね?」
 貴臣は、完全に俯せだった顔を僅かに横にずらした。
「俺は劇的に元気になるのかな? それとも、こんな常時睡眠不足みたいな体調が、今と何も変わらないまま続いて、ただ寿命だけが延びるのかな? その場合、俺が死ななくなったかどうかってどうやって調べたらいいのかな? また前みたいに病院で頭の先から爪先まで全部検査してみてわかるかな? わかんないんじゃない? 気持ち悪さが張り付いたまま、死ぬまで生きろって言うの? 今より条件悪くない? 全部やってみないとわかんないって言う? でも、俺は嫌だから、しないよ。気持ち悪い、すっごく気持ち悪い。そんな穢れが体内に残るなんて気持ち悪い」
「じゃあ俺も飲むし」
「は?」
「俺も、臣と一緒に人間の血を飲むよ」
 貴臣は上体を起こした。
 御堂島の笑った顔を見つめて、しかし自分は怪訝な表情を崩せない。
「お前、何言ってんの?」
「どこまでも貴方と共に、御津藏貴臣」初めて会ったときと同じ言葉を、御堂島は嘯くように口にした。「誰も忘れたわけじゃないんだよ。みんなで一緒に穢れよっ、貴臣」
 がんばろ、みたいに拳を握った二十代半ばの男を見て、貴臣は深く息を吐いた。
「…………、あーあ、あー」
 貴臣は再び布団に突っ伏した。喋る気力が無かった。お前はそうやって俺をどうにかこの世界に適合させてずっと長く生かしたいかもしれないけど、俺は別にそうでもないんだ御堂島。
「お前らが、」
「貴臣、俺たちがさ、お前の血液から享受できるメリットを目的に言ってるわけじゃないことはわかってるんだよね?」
「どっか行って、御堂島」
 何かもっと言うべきだろうなと思った。そんなのわかってるよとか、そんなような親切な言葉を。けれど貴臣は親切じゃないし、優しくもない。そしてこれ以上気分が悪くなったらこの親切で優しいやつらに見せつけるようにして手首のひとつでも切り落としたくなってしまいそうだったから、貴臣はそのまま目を閉じた。もう喋るな、眠らせろ。
 通じたのかはわからない。どこまで、そして、どこからが。
 けれど御堂島は黙って部屋を出て行った。



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