群青




C02-A002
戻る



 ロビーを抜けて、会場に入ると、一縷は自分が病棟の中にいるような錯覚を起こした。病院ではない。病棟だ。病院というのは、性質としては一時的である。訪れたものが経過する場所。しかし、病棟というのは、性質として、停滞している。診られるだけの場所だ。そこに時間は流れていない。一縷はそういう風に認識していた。
 ここはまるで病棟だった。
 見られるためにだけ存在している人形。けして変化してはいけないもの。変化しないことにこそ価値があるモノ。見る者によって価値の変わるモノ。それは一縷がかつての自分に求める何かと同じ気配がして、とても親近感を覚えた。それに惹かれる。その何かに。
 一縷は、こつりと響いた自分の足音を聞いて、自分が一歩踏み出したのだと知った。それは吸い寄せられるような感覚。美しいものへと歩み寄ってしまう。
 会場に入ってまず最初に目につくのは、がらんとした室内の中央で、赤色のソファに座っているひとりの少女だった。白いワンピースを着せられて、ざんぎりの黒髪は無造作に見える。そう、葛が丁度このような髪型をしていた、と思い、目を細める。その人形は目を瞑っていた。口元は僅かに微笑んでいる。楽しいうたた寝の最中。そういう風に見えた。首に金のプレートが下げられていて、そこにはフェノメノと刻まれていた。このプレートはきっと体温で曇ることも指紋が付くこともないのだろうと思った。
「すごいだろ?」
「お前が作ったわけじゃあるまい」
「っせえ。メーリの制作者だよ。後継者探してるんだってさ」
「見つかるといいな」
 背後から、あまり関心がなさそうな二人の声が聞こえて、一縷はちいさく息を吐きながら人形の大腿部を見つめた。
 あれ。
 一縷は、人形よりも、人形の背後に注目する。
 これは、もしかすると、一縷が家具屋に行くたびにものすごく欲しいと感じていたあのソファではないか。
 一縷は、人形よりもそちらに気を取られてしまった。
「店長」
「あーん? 何?」
「このソファって、誰のですか」
「誰のって……あたしがこないだ買った奴だけど」
「人形のために?」
「うん」
 一縷がバイト代を溜めて家具屋に行った頃には買い上げられていたソファである。
「店長……」
「何だよ、人形を見ろよ。確かに座り心地は最高のソファだけどさ」
「店長……」
「な、何、何で怒ってんだよお前。それより、他にも展示はあるんだから、そっち見ろ、そっち! ほら行け未成年! 若い内に芸術に触れろ!」
 尾花はしっしっと追い払うような動作をした。追われる犬のような渋々加減で一縷は奥の部屋へと向かった。内心では人形のためなら仕方ないという気持ちとそれは私が欲しかったソファなんだという気持ちがせめぎ合っていた。
 あのソファで、ゲームするの……楽だろうな……。
 はああ、と重いためいきをついて、一縷は再び歩き始めた。
 こつ、こつ、と廊下を抜けて、その向こうには、また病棟の一室があった。
 今度は、びろうど張りの椅子に座っていた。その座り方はさっきの彼女と変わらない。肘掛けに腕を置いて、脚はそのまま投げ出している。まるきり、少女の姿勢であった。今度は、すこしだけやんちゃな女の子かなと思う。食事の際に、テーブルの下で脚をばたつかせるタイプ。それを笑って窘める母親の姿まで想像できた。けれど、先ほどの少女と大きく違う点がひとつだけあった。
 首が無いのだ。
 いや――胸部より上が全部ない、という表現が正しい。けれど肩の球はあるし、その先の腕もある。胴体も、脚もちゃんとあった。爪先まで作り込まれている。
 彼女のプレートには、エフェメヰラとあった。
 その表記に、胸が跳ねる。
 エフェメヰラ。
 ああ、ヰドラと――名前の文字が、ひとつ、同じだ。
 ヰドラというのは、一縷とけして切り離すことのできない存在である。
 郷愁のような、諦觀のようなものを感じさせる存在。
 その名の通り、まるきり偶像そのものなのだけれど。
 ――自分の中で語るならそれだけで済むだが。もしも他人にその存在を説明するとすれば、紫機流が設計し、紫機流の同僚(それはタワー型コンピュータを組み立てた片里という人間である)が製造し、一縷が基本人格をプログラミングしたペットロボットだった。四足歩行が可能で、完全に愛玩用のロボットである。
 一縷はおそらく人格の深層でヰドラにかなりの執着をしているが、そのことについて誰かとの会話で触れるつもりはない。
 それは、どこか――生理痛にも似た気持ち悪さを覚えるのだった。
 生々しくて厭になる。
 一縷はエフェメヰラに手を伸ばしてしまいそうになった。そのすこし勝ち気な少女に。ヰドラにするのと同じように。ああ、生々しくて厭になる。
 一縷が求めているのは、一縷がもうどうしようも無く喪ってしまった――
「エフェメヰラ」
 そっと名前を呼ぶ。
 白い壁への反響、数秒、あるいは、数瞬の――沈黙。
「……、ああ」
 胸がすうっと冷たくなっていく。
 そう、そうだ。返答が帰ってくるはずがないのだ。
 これは人形なのだから。
「一縷」
 背後から声を掛けられて、一縷は振り返る。
「見た? すごいでしょ?」
「――ええ」
「おや……それにしては失望したような顔をしてんね?」
 尾花は、目を細めた。
「いえ、人形……すごく、興味が湧きました」
 これは本当だった。けれど、一縷が求めるものとは違う。指向するものは同じ筈なのに、どこかがやはり決定的にずれている。そのことを思い知らされたのだった。
「そっか。蛍の光が流れる前にどっか飯食いに行こうって話してたんだけど、お前も来るでしょ? ハンバーグ食べに行こうぜ」
「あの、でも……展示、まだ見終わってないんです。まだ二つしか」
「え? 二つで終わりだけど」
「えっ?」
「完全新作展示会って言っただろ。完全新作二つしかないから展示は二つしかないよ」
「えっ……チケット代、確か、二千円くらいじゃありませんでしたか?」
「ああ」
 マジか、と一縷は胸の内で呟いた。確かに……得られるものは多かったけれど、それにしたって、二千円は、痛いだろう。どうなんだろう、こういうものを見に来る人はこれが普通なのだろうか。平均の価格か? お客が少なかったのも、それが原因じゃないのか?
 一縷は眉間を押さえた。
「それで、行くの? 行かないの?」
 尾花がタバコを取り出す気配がしたので、一縷は顔を上げた。
「ええ、行きます」



 戻る
△top





© 2008- 和蔵蓮子