群青




C02-A001
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 ふー、という溜息にも似た音と共に、彼女の唇から白い煙が吹き出された。その煙は、彼女の息の支配を逃れたものから空気にとけ込み、拡散してゆく。一縷はその煙が嫌いではなかったけれど、さすがにどうかと思った。彼女の名前は尾花と言う。一縷の数少ないバイト先のひとつ、雑貨屋16bit堂の店長である。バイト代を出すから、個展の受付をやってくれないかと言われたのが、三日前のこと。御堂島に頼まれた件の小瓶を届けた日だった。ヒマだった一縷は二つ返事で了承した。
「店長、換気してください」
 ここは個展の会場だと言うのに、ロビーにタバコの煙が満ちているのはいかがなものかと思う。半地下になっているギャラリィで、一縷は昼からずっと受付の椅子に座り続けていた。それはアルバイトだから構わないのだけれど、隣に座る主催の尾花が始まってからずっと怪しげなタバコをぷすぷすやっているのだった。今日は個展の最終日であり、それもあと一時間ほど、午後六時になれば受け付けが終了してしまうのだ。それでいいのか、と一縷は思った。
 尾花は一縷の苦言に対して、シニカルに顔を歪めた。軽く傾げた首に合わせて、店長のショートカットの茶髪がさらりと揺れる。
「いいじゃないか、何かお前に迷惑をかけているか?」
「ええ、主に……副流煙が、私の肺に、ダイレクトアタック」
「そんなものがね、君、実際に君の体に害をもたらしていることを、どうやって実証するんだ? あ、この場でだぞ。人間ドックなどは無しだ」
 一縷は軽く首を傾げた。
「店長、お客さんがこなくても構わないんですか?」
「ここに来る客は、このギャラリィのロビーに煙が立ちこめていることを知っていると思うか、一縷?」
「いえ……おそらく、知らないと思いますけれど」
 だから問題なのではないか、と一縷は思ったが、店長は重々しく頷いて、そうだろう、と言った。
「だから、問題ない。来場者は扉を開くまでここが紫煙の巣窟であることを知らないんだから、躊躇う要素は存在しない。我々は猫である、名前だって持っている。なあ一縷?」
「だから、問題があるんじゃないですか。扉を開いた来場者は一目でここが紫煙の巣窟だって理解しますよ。どうするんですか、非喫煙者または嫌猫者だったら、その場で回れ右ですよ。箱を開けたシュレディンガーに蓋を閉められるなんて、笑えない」
「一縷、君、実は喫煙者放逐団体の斥候か何かだろう? 尖ってるな、厳しいぞ、私に」
 尾花がそう言った直後に、しゅん、と音を立てて入り口の自動ドアが開いた。室内に立ちこめていた煙がそちらへ流れていく。空気の流れの実験をしているかのようだと思った。紫機流が中学生だった頃の話を聞いた記憶がある。実験で使用する線香を彼女は授業中に十三本ほど折ったのだ。紫機流には線香を扱うための才能が無かったのだろうと思う。
 入り口に立っていたのは、スーツ姿の女性だった。一縷はその女性を知っている。つい最近のこと、パラノイドからの帰り道。死んだ人間を発見した後の事だった。
 肆戸統轄機関の、三島桂。
「あ……」
 腰を浮かせる。話を――もう一度、聞いてみたいと思っていたのだ。この三日間、一縷は葛について、ずっと考えていたのだから。右側に座っていた店長を見ると、彼女はタバコを銜えたまま笑顔でひらひらと手を振っていた。知り合いのようだ。ひとまず落ち着いて、一縷は椅子に座り直した。
「久しぶりじゃないか、桂」
 三島はその言葉に応えるように一瞬だけ視線を揺らした。それから、こつ、こつ、とヒールの音を立てて階段を降りてくる。
「何だ、何で来たんだ、こんなとこ。仕事か?」
 店長は受付に乗り出している。随分と親しげな様子だった。三島も先日のような冷たい視線を引っ込めて、しかし淡々と応じている。
「来いと言っただろう。六日前に、メールで。今日は残業をあまりしないことにした。時間を空けてきたんだ」
 こつ、と足音が目の前で止まる。一縷は三島を見上げた。三島もこちらを見下ろした。軽い、視線の交換のあと、三島はすっと尾花の方へ視線を移した。
「換気しろ」
「なんだよ、一縷と同じこと言うじゃん。お前も煙草は呑む口だろうが」
「未成年者と非喫煙者が居る場所では吸わない」
 尾花は煙草を吸い込んだ。その目が何かを見定めるように細まる。三島はどこか面白がるような口調で続けた。
「私の記憶が正しければ、これはお前の持論だった気がするな、尾花」
「人間は矛盾する生き物だ。矛盾するために生きているのだと、私は思うね。お前だって自分が未成年の頃は吸ってたくせに」
 三島はくすっと笑った。一縷は大きく瞬きする。先日の事情聴取の時は冷たい人間だと思ったが、その笑顔はその印象を覆すような柔らかさがあった。
「お前が呑む理由を作るために吸ってただけだ」
 三島のその言葉を聞いて、尾花は盛大に溜息を吐き、灰皿にタバコを押しつけた。ぼそ、と、負け惜しみのように呟く。
「過冷却はもうやめたのか? そっちの方が似合ってるぞ、お前」
「生憎、もう凍った」
「ふぅん?」
「ああ」
「ふーん、相変わらずだな」
「私は相当前から相変わらずだよ」
 一縷にはわからない会話を終えて、尾花はあーあ、と呟いた。そして、おもむろに立ち上がって、受付のテーブルを回って、今し方三島が下ってきた階段を上った。ドアの隣のボタンをいくつか切り替え、換気扇を回したようだ。センサが尾花を感知して、白い自動ドアが数回開閉した。天井から、ごおおというファンが回る音が聞こえた。足下に涼風を感じる。天井の辺りにたまっていた煙が、吸い込まれるように排気されていった。いつしか紫機流に聞いたことがある、吸気と排気のシステムだ。どちらが吸気で、どちらが排気だろう。
 尾花は、ドアの横にひっそりと佇んでいた人の胸くらいの高さの看板を引きずってきた。それに、closetと書かれていることを一縷は知っている。もう閉める気なのか、この人は。
 尾花は振り返って、にやりと笑った。
「一縷、設営のときにお前はいなかっただろ。桂のついでに、見せてやるよ。学割だ」
 私の学割は不登校児にも適応されるからな。そう言って、尾花はけらけらと楽しそうに笑った。



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