一瞬でフリーズから回復した一縷はぱっと辺りを見回した。申し訳程度の笑顔も失せた。誰か大人が居ないかと思ったのだ。居なかった。さっき、確認したように。誰も、居なかった。ここは裏通りであり、入れるような店も見あたらない。
一縷は舌打ちをしたいような気分だった。路地の前に居ては無防備だと思い、少女の手を引いて一メートルほど移動した。少女の目を覗き込む。
「それは、確か? どこで?」
「本当です、本当です、死んでいます、そこの、今の、路地裏で!」
一縷は携帯を取り出した。
「誰か他に人は――居なかったんだ」
確認するように呟く。そう、居たら、きっとこうして一縷の側へ来ることはないだろう。一縷は軽く唇を噛んだ。口のピアスの留め金と歯がぶつかって、かちりと音がした。
一縷は、ゆっくり、声を出した。
「路地の、中ね? 私はこれから確認をしてくるので、きみ……えーと、名前は」
「――苑宮です。苑宮葛」
「ソノミヤカズラちゃん。葛ちゃん。私は一条一縷です。えーと……」
「一条……」
葛は小さく呟いた。
「うん、えっと、そうだな。葛ちゃん、ちょっとここで待っててくれる? その辺りで」
近くの消火栓を指さすと、葛は縋るようにこちらを見てきた。
「こ、怖いです」
「怖い?」
一人になるのが、という意味だろうか。一縷はすこし考えた。しかしこの少女にもう一度死人の顔を見せるのは酷だろう、既にこれほど怯えているのだから。
「えっと……一人になるのが?」
「はい」
「そうか……えーと……でも」
一縷は言葉を選びあぐねた。葛の意向を優先したいところだが、死体があるならそれを確認して通報することが優先だ。どちらがマシか聞くべきだろうか。一縷と二人でもう一度死体を見るか、それとも一人でここで待つか。いや、ここは年長者である一縷が判断すべきだ。反吐のような感情を殺すため、眉間にしわを寄せる。
「……あ……」
一縷がほんの一瞬躊躇している間に、葛はそれを察してしまったらしい。賢い子供だ。一縷は目を眇める。唇を引き結んで一歩下がった。
「……ごめんなさい、大丈夫です。何でもありません」
「……悪い。すぐ戻ってくるよ」
一縷はそう言い残して、歩き始めた。開いていたアプリを全て落として容量と残り充電量を確保する。
葛が飛び出してきた角を入ると、途端に陽の光がなくなり、暗くなった。どうしてか一瞬眩しいと思ったが、すぐに目が慣れた。
高いビルの壁に挟まれた路地だった。地中街を歩くこともある一縷にとっては見慣れた風景である。そしてこれもそういった路地によくあることだったが、様々な機械の室外機がところせましと並んでいて、とても視界が悪かった。
それでも一目で目についた。
地面に、アスファルトで固められた地面に、人間が転がっている。その人間の胸には深々と棒のようなものが突き刺さっていた。よく見ればそれはグリップである。上手に握り込めそうな、上手に力を込められそうな、グリップである。一縷はそれをナイフだと思った。
そう、数メートル先の地面に、殺人死体があった。
――死んでいる、って、他殺、かよ。
飛び降りかと思ったのに――
確かに死体だ。確かに、形容するならば、死体という他無いだろう。
いや――正確に表現するなら、他殺死体、と言うべきだった。
しかし、それをあの怯えた少女に求めるのは酷だろうか。
一縷は視線が逸らせない。
助けられるはずもない。
だって瞼が開いたまま、その目はこちらを見ているのだから。黒目が大きい。睫毛が長い。髪が地面に散らばっている。
少女の死体が。
一縷と。
目が合っている。
悪いな、と一縷は思った。彼女に対してか、あるいは、胸が、という意味か。曖昧な感想だった。
「――……、通報しよう」
口に出して、一縷は短く息を吐いた。半ば力ずくでその亡骸から視線を下ろして、この暗闇の中ただ発光を続ける携帯の画面を指でなぞった。
――通報を終えて、通りに戻った頃には、葛の姿は消えていた。
© 2008- 和蔵蓮子