群青




C01-B003
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 数秒の沈默があった。
 ちらりと左目で香屋埜を伺うが、その細い目からは何も読み取れなかった。
「眼球といいますと」
 香屋埜が話を促した。
「先週のことです、僕の娘が轢き逃げに遭いまして」
「それは」
「いえ、それが、変な言い方にはなりますが、それ自体は良かったんです。幸いなことに骨折もなく、擦り傷と些細な打撲で済みました。しかし、大通りまで来た救急車の道案内をするために、僕は一瞬娘から離れてしまって」
「ええ」
「救急隊のひとと娘のもとに戻ると、娘の眼が繰り抜かれていたのです。後から聞いた話によれば、ナイフのようなもので雑に視神經ごと切り裂かれていました」


 人間椅子を出、タクシーに乗り込むまで、香屋埜も一縷も無言だった。通りで捕まえたタクシーに乗り込んで、一種独特な香りに包まれてから、一縷は一呼吸おいてぽつりと尋ねた。
「何でですか」
「何がだね」
「どうして受けちゃったんです、あんな話」
 男は、あの後十分以上の時間を費やして目玉の繰り抜かれた自分の娘を発見してから救急車に載せるまでの一部始終を語ってみせたのだった。茫洋とした雰囲気は変わらないまま、しかし何かに取り憑かれたかのように――それは入院中だった頃の一縷が見慣れた光景でもあった。取り憑かれているのは、顕示欲だ。
 一縷は唇を噛む。
 まともな話ではない。
「本当の話だと思ったからだよ、一縷くん」 
 香屋埜は煙草を吸えないことが残念そうな雰囲気でそう言った。それはただの一縷の推測だったが、外れている気はしない。
「あれは本当の話だ。私は本当の話を聞くのが好きでね」
 好きだからといって業務外の依頼を受けるのは正しくない。
 一縷は眉をひそめた。
「パラノイドは、何屋なんです? 観光案内業じゃないんですか」
「探し屋さ」
「探偵事務所とでも改名したらどうですか」
「残念だがね、店の名前は変えられないね。あと、一縷くん。君は、何もかもを自己顕示欲と錯覚で片付けるきらいがあるから、その点についてもう一度考えてみるといいよ」
 一縷は眉間の皺を更に深くして、溜め息とともに体をシートに沈めた。
 これだから、紫機流の知人は油断がならない。

 パラノイドを出て、一縷はぶらりと路地裏の方へ向かった。
 歩きながら考え事をしたい気分だったのである。
 店に帰ってからのミーティングの結果、一縷が今回の件で任されたことは、叔母の紫機流から今回の依頼人との関係を聞き出すことだけだった。残りは總て香屋埜がなんとかするらしい。
 これまでも、『探し屋』などという紛らわしい名称のおかげで、興信所や探偵事務所などといったものと間違われて依頼が来ることは多々あった。
 しかし、香屋埜はそれらの依頼も總て請け(違うと知ってなお依頼する方もする方だが)、そして總てを依頼人の納得の行くかたちで収めているというのだから、もう――一縷には理解が及ばない。なんと言っていいのか、本当に名前を変えるべきでは?
 そもそもあの稼業が成立しているとは思えない。香屋埜はどこかに土地を持っているらしいので、もしかするとパラノイドは完全な道樂なのかもしれなかった。
 社会性とは縁のない一縷は、そのように自分を納得させた。
 路上に停車していたワゴンの横を通り過ぎた瞬間、車のドアが開いて二の腕を掴まれ車内に引きずり込まれた。鳴り響いていたセミの声がふっと止む。入れ替わりに外へ出た人物は慣れた手つきでスライドドアを閉め、そのまま運転席へと乗り込んだ。シートベルトをしめて、一息ついている。
「!?」
 驚いたのも束の間、一縷は間髪入れずに兩手でワゴン車のドアを開こうとするが、ノブが動くだけでドアは開かない。
 鍵はかかっていないのに――――チャイルドロックか!
 この一瞬でよくもやりやがる。
 怒りが沸騰した。
「きみの名前は」
 運転席に座った青年が、ミラー越しに一縷を見た。一縷はひたと睨み返す。一縷がいくら美人だからと言って、このような誘拐をされることは我慢がならない。もっと紳士的にするべきではないのか。
 癖のある白髮。痩せた体。表情の浮かばない顔。そして、カラーコンタクトでもはめているのか――群青色の目。ずきんと頭が痛んだ。
「何ていうの?」
 一縷が黙っていると、少年は困ったように眉を寄せた。
「育っているから、間違っていたらどうしようかと思っている。名前を教えてくれないなら、その右眼を見せてくれないかな」
 なぜ要求されているかわからないが、一縷の右の義眼は現在、髪で隠してしまっていた。
「右眼は見せられない」
「どうして?」
 一縷は、この危機的状況に置いて、ふっと躰の緊張が緩むのを感じた。
「好きになられたら、困るから」
「――……、ああ、やっぱり。きみの名前は、一条一縷だ」
 安心したようにそう断じると、少年は目を伏せて、エンジンのキィを回した。
 うわ、まずい。
 一縷は、シートベルトの金具をひっ掴んで、窓ガラスに思いっきり叩きつけた。
「えっ」
 運転席から悲鳴が聞こえる。構わずに、二度、三度とぶつけると、窓ガラスが綺麗な放射状にたたき割れた。その穴に躊躇無く手を突っ込んで、外側からドアを開ける。腕を切った気がしたが、痛みは感じなかった。
 転がるように車外へ飛び出し、一歩、二、三歩で体勢を立て直す。
「ちょっと、ちょっと待って一縷! 僕は」
 誘拐未遂犯の声が追いすがってきたけれど、一縷は待たずに来た方向へと逃げ去った。

 裏路地に入り、民家に偽装されている階段から一縷は偏執市場地下部に滑り込んだ。近くに居ても遠くに聞こえる喧騒と、涼しい空気に包まれる。
 石畳風にアレンジされたアスファルトの上を早足で歩き、左右と上下に並ぶ不思議な店たちの間を掻い潛る。
 鉄の階段や歩道橋などの外見は、スラムやクーロン城などが好きな観光客が見れば歓喜の声を上げるものだが、見慣れた一縷はどこにも目を留めない。
 まったく何だってんだ、って思いながら路地を抜け、一キロほど歩いて地上へ出てしばらく歩くと、ぽつぽつと小雨が降ってきた。
 地下道に戻ってタクシーでも呼ぶか、と思ったとき、右側の腹部にどん、と衝撃が走る。
 右側。
 一縷の右眼に視力はない。右側はめっきりの死角である。さっきの輩か?
 肝が冷えたところでそちらを見下ろすと、そこには黒髪で白いワンピースを身につけ、人間とは思えないほど顔面が蒼白な少女が縋り付いていた。
「なんだ?」
 ぽつりと声が漏れる。
 どうやら、少女は一縷の右手にある細い路地から飛び出してきたようだった。一縷はそこに路地があったことにすら気がついていなかった。ちらりと伺っても、室外機やら排気筒やら電線やらで何も見えない。
 白いワンピースの少女は一縷と似たような色味の黒髪を揺らして、救いを見つけたような表情で一縷の顔を見上げた。
 そして、ひっ、と、怯えたように息を呑んだ。救われたような顔のまま、硬直する。その視線が一縷の顔面の右側に滑る。また、怯えたように首を竦めた。彼女はそのまま一歩後ろにさがった。
 しまった、と一縷は思った。
 怖がらせてしまった。
 この子は一縷のどこに怯えたのだろう。どこに、というか、どれに……。思い当たる節が多すぎて予測がつかなかった。左耳と口にピアスを空けていることだろうか。一縷の右眼の焦点が合っていないことも怖そうである。学校に行っていないときの一縷は容赦なくピアスをつけているから、そのせいでヤンキーだと思われてしまったかもしれない。
 いや、いや、落ち着け。これは、自意識過剰に過ぎない。
 何にせよ、自分が少女受けする外見ではないことは自覚しきっていたし、少女をこれ以上怯えさせたくもない。一縷は、一度おおきく瞬きをしてから、ぎこちない動作で首を傾げた。
「どうしたの?」
「――あ、」
 少女は切羽詰まったように周囲を見回した。他の人を探しているようだった。イヤホンを外して首に掛けながら、一縷も同じように顔を上げて周囲をみたけれど、一縷以外に人影は見つけられなかった。考えてみれば、すこし不思議かもしれない。偏執市場ならともかく、人が一人も居ないというのは、すこし、嫌な感じがした。
 少女は諦めたように一縷をもう一度見上げた。
「あの、あ、あの、あの、」
 少女は、エラーログを吐いているときのプログラムのように、同じ言葉を繰り返した。
「あ、あの、あ、」
 少女の目にじわりと涙が浮かぶ。どうしようか、と思って、一縷は笑ってみようと努力した。右頬が引き攣れたように痛むので、普段は笑わない一縷である。
「あの、まず、落ち着いてね。わたしは、あなたに何もしないし、困ってるなら、助けようとも思う」
「死んでいます」
「――――、は?」
 一縷は、フリーズした。
「人が死んでいます」



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