未必の戀の返りごと




アンダンテ
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「御津藏くん」
 もはや当然のように聞き流していた声に名を呼ばれて、貴臣は突っ伏した机からほんの少しだけ顔を上げた。
 怒ったような顔を作った理科教師が、腰に手を当てて貴臣を見下ろしていた。
「授業はちゃんと聞きなさい」
 ああ、自分に対してそんな月並みな注意をする教師がまだ存在していたのか。
 それに少しだけ驚きながら、貴臣はただじっとその名前も覚えていない教師の顔を眺めた。化粧が薄い。髪が黒い。清潔感がある。
 あまり、おいしくなさそうな。
「聞いてるの? 具合が悪いなら保健室に行きなさい、そこで寝られると授業にならないの」
「じゃあ、眠いので保健室に行きまぁす」
 間髪入れずにそう宣言して、貴臣は席を立った。怠い気持ちを隠しもせずに首を回して、ちらりと窓際の席に目を遣る。苦笑するような顔をした知り合いの顔が面白くて、そちらにひらりと手を振った。
 言葉も出ないといった風な教師を完全に無視して、貴臣は教室を出た。
 注意してどうにかなると思ってんのが、わかんねえ。
 しかし、それも教師としての義務なのだろう。仕方のないことだ。
 ふああ、と大きな欠伸をしながら、貴臣は階段に向かってタイル張りの廊下を歩いた。横を通り過ぎる教室の箱の中、素直に収まっている生徒のうちの何人かがちらほらと貴臣の方を見ていることに気づいていたが、貴臣はそれも無視した。この素行の悪さと外見のせいで貴臣は同級生を始め、様々な部類の人間から遠巻きにされていた。
 廊下を突き当たり、階段の踊り場の前に立ち、貴臣はわざとらしく腕を組んでみた。
 今が何時だか知らないが、さっきの授業が四時間目だったから、鐘が鳴ったら昼休みだ。
 屋上のある上へ行こうか、保健室のある下へ行こうか。階段の前で少し悩んで、貴臣は上へ向かうことにした。

 一番上まで昇りきって、一息吐く。屋上前のこのスペースは、貴臣とその知り合いが数名たむろする格好の空間となっている。
 スチール製のロッカーが一つに、使われていない机が四つ、並べられている。そこに椅子は無かったが、学校の椅子は座りづらいので別にあろうがなかろうが別に構わなかった。必要だったら空き教室から持ってきている。
「あーあ」
 めんどくせえな。誰にともなく呟きながら、貴臣はロッカーと机の間の空間に腰を下ろした。狭いスペースが好きなのだ。猫背のまま壁に寄りかかって、目を閉じる。
 この学校の屋上は、二年前の飛び降り事件のせいで封鎖されている。だからなのだか知らないが、屋上の扉に触れた生徒は受験に落ちるという局地的な都市伝説が発生し、貴臣たち以外はこの場所に近寄りもしなかった。まあ、仮にそんな噂が無かったとしたって、貴臣たちがここにいるのだから、どちらにしろ近寄りたい人間は居ないことだろう。
 少し窮屈だったのでネクタイを緩めて、ふうと息を吐いた。
 寝るなら保健室へ行け、という注意をされた回数は、きっと自分がこの島の中で一番多い。
 のではないか、と貴臣は思う。
 そもそも、自分は人間とは違って、夜行性の生物なのである。こうして日中に活動することは元より本分ではないのだ。
 御津藏貴臣は、吸血鬼なのだから。

 数拍、置いて。
 貴臣は、くすりと笑った。
 ――実際の所、貴臣はそれを信じてはいなかったからだ。
 では、どうしてそんな突飛なことを考えるかと言えば。周りの大人が皆そう言うからだ、と貴臣は答える。つまるところ、証拠は無い。
 ちなみに、その「周りの大人」の中に貴臣の血縁は居ない。
 簡単に言えば天涯孤独の身であった。
 いや、親戚のような者も居なくは無いらしいのだが、関係と言える関係が無い。昔から家に仕える執事や使用人は側に居たが、貴臣に家族は居なかった。
 貴臣のことを最初に吸血鬼だと言ったのは、貴臣の祖父と、その友人である五味伯爵である。その時の記憶は、僅かに、薄く、貴臣の記憶の上に存在していた。貴臣の特異体質を気に掛けた祖父が、民俗学者である五味伯爵を北の果てにあるこの島まで呼び寄せ診断を貰ったのだった。
 その特異体質とは、実に単純なことだった。
 貴臣は、ときに、変温動物が冬眠するかのように、数十年単位で眠ってしまうのだ。その間、身体の成長は止まっている。現在、貴臣は十五歳のつもりで戸籍ごとつじつまを合わせて中学三年生をやっているけれど、生まれたのは昭和の初期のことだった。その数十年の空白を、休眠期と呼ぶらしい。それが吸血鬼の顕著な特徴のひとつだと言われた。
 この前、休眠から目覚めたのは八年前のこと。
 次、いつ目覚めなくなるかもわからないまま、起きては眠り、生きている――
 生きていると――言えるだろうか。
 初めて口に含んだあの液体の味は今でも覚えている。どろりとして生臭く、厚みのある舌触り。ひどく気分が悪かった。
 お前は吸血鬼だと言われて育った貴臣は、生まれてこの方十五年、人間の血液を飲み下したことが無かった。
 何度も何度も、口に含んだことはある。しかしそれを嚥下するには至らない。それが死ぬほどおいしくないのだ。飲み下して害のないものには思えなかった。あれを飲むくらいならば人間の真似をして摂取する食事の方が断然マシで、しかしそれが気休めにしかならないことは自分が一番わかっていた。
 起きてから、徐々に、活動時間が短くなってきている。
 休眠から覚めてすぐの七歳の頃は、十時間、十二歳で十二時間、十五の今は、十四時間。それが貴臣の睡眠時間である。
 自分が吸血鬼であるとは思っていない。食事で栄養を得られていないことが実感としてわかっている今でも、自分では、少し日光が苦手で、髪の色素が薄く、たまに数十年眠るだけの人間なのではないか、くらいに考えている。
 けれど、吸血鬼だろうが欠陥持ちの人間だろうが、何かしらの対応策を考え出さなければ、閉塞してしまう。
 そんなことは誰に説明されなくても理解していることだった、けれど、その解決策が吸血だなんて思いたくない。あんなものを飲むくらいなら泥水を啜って死んだ方がまだマシだった。だっておいしくないんだもん。
 他に吸血鬼は居ないから、誰も貴臣の正体を教えてくれない。
 貴臣は膝に顔を埋めた。
 じわりと重力に従って浸透してくる眠気に身を委ねて、貴臣は深く息を浸した。



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