さらさらと、さらさらと動く貴臣の指先を見つめる。その筆先には一切の迷いがなく、まるで解く問題の答えを知っているかのように思えてしまうほどだった。
掴まれたままの右手首へと視線を落とす。掴まれているというよりか、ただ、触れられているだけのような、そんな風情の接触だった。このひとは、諌名に触れるとき、いつもやさしい。
そう考えてから、今日の朝のことを思い出した。
あの濁流のような言葉と、そのまま潰れてしまうのではないかと思うほどに強く引き寄せられたこと。
諌名は、首を傾ける。髪がさらりと付随する。
けれど、それでもこのひとを優しいと思ってしまうのはどうしてなのだろうか。
自分が、このひとと一緒にいるときに、穏やかだからかもしれない。彼の側に居ると緩やかに穏やかに時が流れるような感覚があった。これまで停滞していたそれが静かに動き出している感覚。すべて、貴臣に起因しているのだろう。
諌名は、細い息を吐いた。
「諌名ちゃん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。彼は机の上のプリントを見ていた。
「何考えてるの?」
その手は動いたままである。会話と同時に課題が出来るのかしら、このひと。
そう思いながら、答える。
「あなたのことを」
ぱきっと音を立てて、貴臣のシャープペンシルの芯が折れた。諌名の右手にかかる手も心なしか強張ったような気がする。
「どうしたの?」
「えっ? ああ、うん、えっと、待ってね、いさなちゃん、えーっと、そう、俺の、何を? 考えてたの?」
貴臣は特に変わらない表情で、特に変わらない姿勢だった。けれど、問題を解く手は完全に静止している。やっぱりできないのかしら。
「やさしいと考えていたの。それだけ」
「ヤサシイ?」
貴臣は片言で繰り返した。
「俺が?」
こちらを向いた。
その口の端は引き攣っており、なんだか笑い損ねたようにも見えた。そう、さきほど食堂から戻る際に見せたのと同じような表情。何かを堪えているようにも見える。
「諌名ちゃんを拉致して、ずっと側から離せない俺が、やさしいと思うの?」
「ええ」
「うそつき」
貴臣は、笑った。
けれど、全然楽しそうには見えない。
「――嘘?」
首を傾げる。髪が、付随した。
「だってさあ、そんなこと、ありえないよ。そう思わない? どちらかといえば、嫌いになるでしょ、普通……そっちのベクトルに向くんじゃない?」
ああ、泣いてしまいそうだわ、と思った。
諌名ではなく、貴臣が。
「ねえ諌名、怒らないからさあ、ほんとうのことを教えてよ。何考えてたの?」
「嘘じゃないわ」
「うそだよ」
「どうして? あなたはわたしのことを嫌いにならなかったのに」
そう言うと、右手を掴む力が強くなった。貴臣は完全にこちらを向いている。ぎりぎりと握られて、右手首が軋んだ。この細い手の、指先の、どこにこんな力が隠れているのだろうと思った。やはり、嫌ではなかった。
「これでも?」
いつの間にか表情の消え去った唇で、貴臣がそう尋ねた。
「ええ」
「じゃあ」
がたん、と貴臣は諌名の方へ身を乗り出した。そのまま、諌名の背に腕を回した。その掌が諌名の髪を、梳くときのような優しさでまとめたときに、これから何をされるのかわかった気がした。
「これは?」
耳のすぐ側で、貴臣の声がする。
そして、息を、短く、吸う気配。
あ、ぐ、と。
彼は、諌名に噛みついた。
© 2008- 和蔵蓮子