床に敷かれた絨毯は、諌名のたてるほんのかすかな足音さえも吸収してしまった。まるで幽霊になったみたいだわ、と諌名は考えた。
わたしが幽霊だったなら、臣くんはどのように思うかしら。ああ、いけないわね。それでは、誰も居ないところに話しかける臣くんがおかしく思われてしまうだろうから。
諌名は暗闇の中を歩きながら、その様子を想像した。
諌名はきっと、臣に話しかけられなければ、そこに自分が存在していることすら曖昧に漂いつづけるだけだろう。触れられなくては、臣の体温をうつしてもらわなければ、認識できない輪郭線。
それは、今とどう違うのかしら?
辿り着いた重いカーテンの隙間から、諌名は窓の方へと滑り込んだ。カーテンの向こうは部屋の中よりずっとずっと明るくて、目が眩んだ。ああ、このカーテンが光を遮る仕組みだったのか、と思った。それで部屋の中が真暗だったのだろう。
諌名は空を見上げた。
朝にしては、いつもよりずっと暗いと思ったのだ。
どうしてかしら、と思ったところで、窓に滴がついていることに気がついた。
ああ、雲がかかっているのだ。そして、そこからおちる、静かな雨が。
雨、あめ。
雨は、天気の中では比較的好きだった。雨を嫌う人が多いのは、きっと、服や体が濡れてしまったり、くつが汚れたりするからだろうと思う。そして、それだから諌名は雨を嫌わずにいられるのだろう。そもそも外出をしないので、雨の嫌なところは諌名に接触しないのだ。
けれど、この天気ではお庭に出ることはできないだろうと思った。それが少し残念だった。午後になったら、止むかしら。あるいは、止んだところで臣くんは足下が汚れるのを厭うて外出したがらないかもしれないけれど。
明日、雨は降るかしら。
明日のことなどこれまで考えたこともない癖に、浮かされたようにそう思った。
――そのとき、小さく声が聞こえたような気がした。
耳を澄ますと、もういちど。今度はずっと、明確に。
まるで泣いているかのような声で、諌名の名前を呼ぶ声があった。
それはまだ一日と一緒に過ごしていないはずなのに、確かにそれとわかる、臣の声だった。
カーテンをくぐって、諌名は再び部屋の中へ戻る。暗さに目が眩んで立ち止まってしまって、しかしその間にも臣は諌名を呼んでいる。
待って、わたし、ここに居るわ。
目が慣れた。
ベッドの上に座っている臣の姿が見える。
「いさなちゃん、どこ?」
臣は、諌名のいるのとは反対の方を向いていた。
「いさなちゃん?」
その声に、まるで懇願するような、その、声に。
絆されたと言ってはけして正確ではない、けれど、けれど諌名は、その声色で呼ばれているのが自分であったということ、そのことだけでどうしようもなく胸が苦しくなってしまった。ああ、そんな声で呼ばないで。そんな声で、まるで、諌名を大事なように。
「臣くん」
口を衝いて出た自分の声は臣と同じくらい切羽詰まっているように聞こえた。
「臣くん」
彼は二度目で弾かれたようにこちらを向いた。その目から涙がこぼれたのを見て、諌名は目を見開いた。
どうして。
ああ、と安心したように息を吐いて、臣はこちらに向かって手を伸ばした。白い、白い、ゆびさきを。
「いさなちゃん、こっち、きて……」
諌名は呼ばれるがままに近づいて、その手の届くところへ行った。ベッドに座って、臣の手に指を伸ばす。
ゆび、ゆびさきが。
諌名は目を細めた。
触れるわ。
そう思った瞬間手が触れて、途端に、いっそ乱暴なほど強い力で引き寄せられた。そのまま抱き締められる。
「どこにいってたの」
首筋にぽたりと熱いしずくが落ちた。
「答えて」
ひ、としゃくりあげて、臣は諌名を抱く腕に力を込めた。
「……外を見ようと思って、窓のところに」
「…………、ああ」
納得したように呟いて、臣は諌名の首筋に頭を預けた。
「いなくなっちゃったんだと思って」
びっくりした。
まるで言い訳するように、臣は言った。どうしていいのかわからなくて、諌名は目を伏せた。
しばらくの間、何も喋らない時間が続いた。臣は諌名の頸に顔を埋めたまま呼吸を整えているようで、諌名は少しも動かずにそれを待っていた。
「どうしようかと、思ったんだ」
臣は動かないまま話をはじめた。
「探しに行こうかとも思ったんだけど、家中探して本当にどこにも諌名が見つからなかったらどうしようかと考えたら動けなくなって、もしかしたら昨日のことも全部夢だったんじゃないかとか、俺の頭がとうとうおかしくなって昨日見た諌名ちゃんは全部幻覚だったんじゃないかとか、こんなことなら、」
臣は諌名の首筋にくちびるを当てた。
その感触に、諌名の背筋が僅かに反った。
臣の右手が諌名の髪を一房掴む。うなじが引っ張られて、痛みを感じた。
「こんなことなら、ひとくちだけでも、飲んでおいたらよかったとも」
思って。
そう言って、臣は口を開いた。歯が当たって、いや、それは、歯ではなかった。
牙。
そう、まるで噛みつこうとしているかのように。
それに気づいて、諌名は小さく声をあげた。
「ぁ……」
「いや?」
くちびるを首筋に這わせたままで、臣は呟いた。そして、それを皮切りにしたように、それで堰が切れてしまったかのように、喋りだした。
「いや? 嫌なの? ねえ、諌名ちゃん、嫌なの? 嫌なんだったら何で俺の前から居なくなるようなことするの? ねえ、わっかんないんだけどさァああ、昨日、お前、俺のものになるって言ったよねぇ? 俺のために生きるんでしょ? 俺のために息するんでしょ? 俺のために存在してるんでしょ? ねえそれならなんで居なくなるの? 起きた俺のことどうして不安にさせるの? ねえ死んじゃったらどうするの、俺が死んじゃったらどうするの、ねえ諌名、俺の目が届かないところに行って俺のかわいいかわいい諌名ちゃんが死んじゃったら俺どうしたらいいの? どうやって自殺したらいい? ねえ好みの自殺方法教えてよ、諌名の言うとおりに死んであげる、ねえ諌名ちゃん言ってみて? 言ってよ、教えてよ、何で黙ってるのそのおくちは誰のためについてるの? ねえ、諌名ちゃん」
ああ。
「答えてよ」
「あなたのために」
諌名は、初めから決まっていたかのように答えた。
「あなたのためにあります」
「あれ、おっかしいなあ、わかってるみたいだね? ねえ、諌名」
「はい」
「わかってるなら、もう二度と俺のこと不安にさせることはないよね? 諌名」
「はい」
「約束する? 諌名」
「……はい」
ぞく、と背筋が震えた。
まるでそれを知っているように、臣は諌名に尋ねた。
「お返事するの気持ちいい?」
「……、」
「返事は?」
「…………はい」
「変態」
びく、と肩が跳ねる。
「諌名ちゃんの、変態」
ひとことひとこと、諌名の奥まで浸透させるように呟かれて、諌名は、は、と息を吐いた。返事、返事を、したほうが、いいのかしら。首筋、噛み損なわれたところを、舌で舐められる。ざらりとした感触。感触。熱くて、指先が疼いた。また声が出てしまいそうになって、くちびるを噛んでこらえる。
嫌だなんて思われたくなかった。
「……歯形、ついてないみたい。よかった」
「……そう」
「残念?」
「……いえ」
「そっか」
臣は腰に腕を回したまま、諌名から少しだけ離れた。
その顔には何の表情も浮かんでいなかった。直後、そのひとみから静かに涙がこぼれる。
ごめんね、とその口が動いた。
「ごめん、ごめんね、諌名ちゃん」
ごめんなさい、と、まるで幼い子供のように。ぽろぽろと涙をこぼした。
「嫌いになった? あのね、怖かったから、ほんとに、嘘じゃないんだよ、ほんとに、俺、怖くて、馬鹿みたいだと思う? 思うよね? 俺の方が諌名ちゃんより大人なのにね、人間じゃないのにね」
臣は叱られている子供のように、泣くのだった。
諌名は、ゆっくり、目を細めた。
その表情がまるで慈しむようにうつっていることを知らないまま、諌名はそっと臣のことを見つめる。
何かを言おうとして、くちを開く。
けれど、やはり、言いたいことは見つからないのだった。臣がこれほど寂しそうに泣いているのに、諌名は相応しい言葉を選ぶことすらできないのだ。
「臣くん」
諌名は小さく呟いた。
臣が顔を上げるのがわかった。
「……臣くん」
何も言うことはできないのに。
馬鹿みたいなのはわたしだわ、と諌名は思った。
けれど、呼ばずには居られなかったのだ。そうすれば何かが伝わるような気がして。何か読みとってくれるような気がして。
甘えているのだ、と思った。
諌名は、臣に甘えているのだ。
情けなくなって、諌名は目を伏せた。
すると、臣はまた諌名の何かを察したように諌名を引き寄せた。
「諌名ちゃんに名前呼んでもらうの、好きだよ。ありがとう」
まだ涙声のままで、けれど堪えきれないように笑いながら、臣はそう言った。
どうしてわたしが慰められているのかしら。
それが少しだけ不本意で、何かを続けようとして、くちをひらいた。けれど、臣の声が本当に嬉しそうに聞こえたので、
本当に嬉しそうに聞こえたので。
諌名は、何も言わずに、口を閉じた。
まだ見失ったままの言葉を閉じこめるように目を閉じて、諌名は、そのまま、臣の肩に頭を預けるのだった。
© 2008- 乙瀬蓮