つぼみ

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つぼみ


 櫻子の家の庭には、大きな桜の木が立っている。
 障子を開けて、櫻子は遠くのそれを見つめた。まだ花のつぼみは堅く閉じていて、例年、もっと暖かくなる、四月の下旬になるころに開花していた。
 この桜は、名弦と共に見ることができるだろうか。
 ――花を見るたびそんなことを考えるのが、日課になりつつある。
 櫻子は、頬に手を当てて小さくため息をついた。
『あなたの恋人になりたいのです』
 ……最初は、結婚してくださいと言ったのに。
 昨日はそれが婚約してくださいに変わり、次の瞬間恋人になりたいに変わった。
 明後日会ったら、どうなっているかしら。
 ……他人行儀に話しかけられたらどうしよう。
 櫻子はもう一度ため息をついた。
「どうしたんです、ため息なんかついて。幸せが逃げますよ」
 振り返ると、食事の盆を持った有馬が立っていた。
「今日からおみそを変えてみたんです。お口に合いますかしら」
「……ねえ、有馬」
「何ですか?」
 櫻子の前に膳を広げた有馬に、問いかける。
「私、お料理をしたことがないわ」
「もちろん、そうですとも。在宮のお嬢様は料理などされなくてもよいのですから」
 有馬はてきぱきと動く。すごいなあ、と思ってそれを見つめた。
「考えてみたら、自分の部屋のお掃除もしたことがない……」
「それがどうかしましたか?」
 櫻子は、はっと口に手を当てた。
「もしかして、私、だめな子かしら」
「何を仰いますか櫻子さま!」
 有馬が三つ編みを揺らして激しく振り向いた。
「櫻子さまはぼうっとにこにこおっとり座ってらっしゃるのが一番似合っているんです! 幼少の頃から共にいた有馬にはそれがわかります! 炊事だの洗濯だの、そんなことは全部私がやりますから!」
「でも」
 櫻子は俯いて指先を見つめた。
「私も何かしてみたいわ。考えてみたら、何もしたことがないじゃない」
「……櫻子さま、何かあったんですか?」
 有馬はいぶかしげに眉を顰めた。
「嫌な夢でもご覧になったとか」
「そんなことないわ。……こういうこと、言ってはいけない?」
「今までそんなこと、一度も言ったことがないじゃありませんか。心配です」
「……そう、ね」
 そう。
 わたしは今まで、一度も、考えたことが、無かったのだ。
 櫻子は指先をきゅっと握った。
 花のこともそうだった。私は、今まで生きてきて、花を育てようと思ったこともご飯をつくろうと思ったこともなかったのだ。
「いいんですよ。櫻子さまは、そのままで。さあ、ご飯が冷めますよ」
「……うん。そうするわ」
 だとしたら、これは一体どうした変化だろうか。
 心当たりの仏頂面に訊ねてみようとそっと心に決めて、櫻子は膳の前に座って箸を持った。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 今日は夜更かしせずに、早く眠ろう。
 早く朝がくるように。
 早く、明日がくるように。


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© 2008- 乙瀬蓮