ひゅう、とつめたい風が櫻子の髪を揺らす。道の端に残った雪に太陽の光が反射して、眩しくて目を細めた。
また来ますと言い置いて帰ってから三日、再び彼は裏門からやってきた。
正面から来てくれればいいのに、と思いながら、櫻子は彼を出迎える。今はだいたい午後三時。有馬は学校へ行っていて、この時間帯なら家に櫻子しか居ないのだった。
「こんにちは」
微笑んで会釈すると、名弦は相変わらずの仏頂面で、軽く頭を下げた。
「こんにちは。……婚約してください」
先日よりも、若干グレードが下がっている。
「……名弦さんは、もしかして、変わっていますか?」
櫻子が首を傾げると、名弦は少し首を竦めた。
「……変わっていますか」
伺うようにそう訊ねられて、櫻子はくすくす笑った。
「なんとなく、そんな気がします。ああ、でも私、世間知らずですから……私がおかしいのかもしれません」
「いえ、知り合いにもよく言われるのです。……あなたは、変わっている人が嫌いですか」
「いえ、好きです」
頷きながらそう言うと、名弦はぴたりと硬直した。おや、と首を傾げると、名弦は不自然な動きで帽子のつばを下げた。
「名弦さん?」
「…………好き、ですか」
「? はい。私と違う考えやお話を聞くのは、とても好きです」
「ああ、そういう……いえ、わかってました」
「そうですか? 名弦さんは変わってる人がお嫌いですか?」
「いえ、そんなことはありません」
「良かった。会うのが二回目なのに、嫌われてしまうかと思いました。……私もよく言われるんです。櫻子は変わっているって」
苦笑しながらそう告げると、名弦は明瞭な口調で、当然のようにこう言った。
「何があろうと、僕があなたを嫌いになることはありません。既にあなたを好いていますから」
櫻子は、少しだけ目を見開く。
「……そう、ですか」
「……そういえば」
名弦は学生服のポケットから小さい紙袋を取り出した。
「……花は好きですか」
「……え? ええ、好きです。とても好きです」
「育てるのはどうですか?」
そう聞かれて、櫻子ははたと自分がいままで花を育てたことがないことに気づいた。
櫻子の家の庭はすべて庭師が管理しており、櫻子が手を入れたことは一度もなかったのだ。
愛でるだけで触れたことはなかったのか、と、櫻子は仄かに表情を翳らせる。
「……実は、花を育てたことはありません」
「そうなんですか。興味は?」
「あります。不思議と、今の今まで考えたこともなかったのですが」
「では、これをどうぞ」
紙袋を差し出されて、櫻子は驚いてそれを受け取った。
「桜草の種です。……これは、観賞用ですが」
紙袋の中には小さいガラスの小瓶が入っていた。その中にはさらさらと、色の濃い砂のようなものが入っていた。
「調べてみたところ、苗から育てるのがいいようです。もしご不快でなければ、次にくる時、ひとつお持ちします」
「……なんだか悪い気がします」
恐縮した櫻子が困ったように首を傾けると、名弦は首を横に振った。
「僕は、本当はただ贈り物がしたかったんです。ただ、花以外に、あなたの好きな物を思いつかなかった。贈らせてください」
「……名弦さんは、どうして、そんなことをしてくれるのですか」
櫻子は思わず訊ねた。
わからなかったのだ。
最初に結婚してくれと言われた時は、冗談だと思った。
ああ、このひとは、自分のお友達になりたいと思ってくれたんだ、と嬉しくなった。
「そんなことを言ってもらえて、嬉しいんです。三日前に来て頂いたときも、あの冗談も、とても素敵で」
……勘違いしないようにと自分に笑いかけながら、楽しいお友達ができたと思った。
それなのに、彼は繰り返す。
まるで――本当に、櫻子のことを、好いているように。
――わからなかった。
「私、お友達が居たことがないので、わからないのです。普通、お友達に、こんなによくしていただいていいものなのですか」
このままだと錯覚してしまいそうに思った。
「……僕は言葉を選ぶのが苦手なので、上手に伝わっていないのかもしれないのですが」
名弦は、櫻子と視線を合わせた。
「僕は、あなたとお友達になりたいのではありません」
櫻子は、ゆっくり瞬いた。
「あなたの恋人になりたいのです」
「……冗談ですか?」
「いいえ」
「そう……ですか」
櫻子は、ふと視線を足下へ落とした。
頭によぎるのは、どうしようもない、在宮のこと。
ああ、これは、どういう気持ちなんだろう。
櫻子は、何かを締め切るように瞬く。
「……ごめんなさい。私、はいと答えることができません」
言った途端に、胸が締められるような感覚がした。
「はい」
名弦の声が諦めたように揺らいだので、櫻子は急いで、でもと続けた。
「でも、私は……名弦さんとまたこうしてお話したいです。……いけないことでしょうか」
「全然、いけなくありません。嬉しいです」
変わらず表情のない声だったが、櫻子にはその声がとても優しく聞こえた。
「また、三日後。来てもいいですか?」
櫻子は顔をあげた。変わらない仏頂面に安心して、こくりと頷く。
「はい。……桜草を、お願いしてもいいですか?」
「はい」
任せてください、と。
名弦は、少し、微笑んだ。
© 2008- 乙瀬蓮