いちばんめ

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いちばんめ


「ごめんください」
 その日櫻子がいつものように庭で花を眺めていると、裏門の辺りから家人を呼ぶ声がした。
 ……珍しい。
 来客など、とても久しいことだった。櫻子は、裾を押さえて立ち上がった。
「はい」
 意識して声を張り上げて、櫻子は躑躅の垣根を回り込んだ。
 まず見えたのは、木戸の上にひょこっと出ている学生帽だった。――学生さん、だろうか。覚えている限りでは、櫻子に学生の知り合いは居なかった。父にも、年齢から考えて、居ないのではないだろうかと思う。では、有馬の知り合いだろうか。彼女は櫻子と違って学校へ通っていたから、同年代の友人がいてもおかしくなかった。
「どちら様でしょうか?」
 声をかけて、戸を押し開ける。
 立っていたのは、やはり櫻子と同じくらいの年齢の青年だった。

「……結婚しませんか」

「……は」
 あまりにも唐突な第一声に、櫻子は目を見開いた。
 そして、学生服を身に纏った初対面の彼は、そんなぶっ飛んだことを言っておきながら、ふっと眉を顰めた。それはまるで、やってしまった、とでも言いたげな。
「……あの」
「……はい」
 その苦渋に満ちた仏頂面と、ふてたような声色が妙におかしくて、櫻子は相好を崩した。そして、問いかける。
「あなたは、どなたですか?」
「……奏済、名弦と申します」
「まあ」
 奏済と言えば、九条御三家に次ぐ名家だった。在宮と同じ五家の一角ではあったが特に交流もなく、一度も会ったことがなかった。
「私は、在宮櫻子です」
「存じています」
 櫻子は首を傾げた。
「どうして?」
 そう訊ねると、名弦は再びしまったという顔をした。
「……先日、この道を通りかかったときに見かけました。名前は、……失礼かと思いましたが、知り合いに聞きました」
「ああ、なるほど。わかりました。それで、結婚というのは?」
 聞くと、更に眉間のしわが深くなった。帽子のつばを引き下げて、名弦はぼそぼそと呟いた。
「……僕は、他にわかりやすい言葉を知らないのです」
 どういうことだろうか。
「ですから、僕は、この間お見かけした時に、あなたが綺麗だと思いました」
「えっと……ありがとうございます。いままで人に言われたことがありません」
「良かったです」
「……?」
「いえ、……いや、僕が一番なのかと思った、ので」
「……もしかして、あなたはロマンチストですか?」
「…………生まれてこの方言われたことがありませんが」
「あら、私が一番ですね」
 櫻子がそう言うと、名弦は口を開いたまま黙り込んだ。
 ――失礼をしてしまっただろうか、と謝ろうとすると、名弦は再び口を開いた。
「……結婚してください」
「……もしかして、私は愛の告白をされていますか?」
「……わかりづらかったでしょうか」
「いえ……とてもわかりやすかったと思います。ただ、突然でしたので、私は驚きました」
「そうでしょうと思います」
 名弦は、親の敵でも見るような顔で口を開いた。
「返事は……まだ、いらないので」
「はい」
「もし、……もし、嫌でなければ」
 また、話をしにきてもいいですか。
 下唇を噛んで、まるで叱られている子供のように俯いている青年を見て、櫻子は吹き出してしまった。
「ええ、是非、いらしてください」
 笑いながら櫻子がそう言うと、名弦は一瞬目を見開いて、それからほっとしたように目を細めた。
 それが初めての笑顔だった。


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