さくらのいろを

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瞼の裏に残っています。それはあざやかな桜でした


 その日、名弦がその家の裏を通ったのは、本当に、ただの偶然が重なった結果だった。
 車の運転手が、急病で休んでいたこと。
 東雲の当主に呼びつけられたこと。
 偶には歩いてみるかと、思い立ったこと。
 些細でささやかなものだが、それら全ては巡り合わせだったのだと、名弦は思う。
 名弦を彼女に会わせるための、天の配剤だったのだろうと、思う。


 視線の先に、垣根の向こうに、その少女は立っていた。長い黒髪が桜色の着物によく映えていた。
 ――ああ、少女と言うには、大人すぎるかもしれない。
 なめらかな顔の輪郭を眺めて、名弦はそんなことを思った。
 ここは確か、在宮の屋敷のはずだ。奏済と同じ五家の一角。
 とすれば、会合か何かの時に見かけていてもいいはずなのに。
 名弦は能面のようだと揶揄されるその顔をすこしだけ動かした。
 ゆるゆると歩く彼女の背中を視線で追って、そこで初めて自分の足が止まっていることに気づいた。
 腕時計を確認すると、どうやら時間に余裕はない。
 名残惜しく思ったが、名弦は再び歩き始めた。


***


 この間呼び出されたお返しだ、と喫茶店に呼びつけた。
 東雲を質問の相手に選んだのは、彼が裏で情報屋のようなことをしていることを知っていたからだった。
 この友人は、名弦には言えないようなことをいろいろとしている。
 だからと言って普段はどうすることもないのだが、こういう時は役に立つ。名弦は物を知っている方ではなかったし、彼の豊富な知識や情報には結構な信頼を置いていた。
 注文したコーヒーが運ばれてきたので、名弦は用件を切り出した。
「在宮を知っているか」
「はぁ? 在宮?」
 東雲の茶色い目にまじまじと見つめられて、名弦は黙って頷いた。
「在宮がどうしたって?」
「……どうして在宮は五家の会合に一度も参加したことがないのかと」
 名弦がそう言うと、東雲はため息を吐きながら椅子の背もたれに体重をかけた。ぎし、と椅子が軋む。
「お前、本当に知らないの?」
「もし知ってたら、わざわざ貴様に聞いたりはしない」
「そうだよなあ……」
 東雲は、ぐしゃっと頭を掻いた。ただでさえ寝癖でぼさぼさの猫っ毛が更に乱れる。
「俺も詳しくは知っているわけじゃないし、あくまで噂としてしか知らないことだが」
「いい。教えろ」
「五家の中でも、在宮は特別なんだよ」
 東雲は、にわかに真剣な顔つきになった。
「神格に仕える、巫女の氏族だ」
「巫女?」
「お前も知っている通り、この街には序列がある。その頂点であるところの神格に唯一近づくことができるのが在宮だ。近づくことができるほど、強い魔力を持った存在だったというわけだ」
 魔力。
 知ってはいるが、聞き慣れぬ単語に名弦は眉をひそめた。
 東雲や奏済は魔力の面で秀でているわけではないから、その方面には疎いのだった。
 ましてや、魔力に関する情報の大半は前時代の大戦の際に喪われている。これまでに知る必要もなかったので、名弦にその知識は皆無と言っていいほど欠けていた。
「――『だった』?」
「ああ。だった。過去形だ。なぜなら、現在、在宮に巫女と呼べるような人間は存在しないからだ」
「……どういうことだ?」
 それでは、あの日名弦が見た少女は、在宮の娘ではないのだろうか。
「――在宮は、禁忌を犯したんだ」
 禁忌。
 名弦が東雲の目を見据えると、ひたりと目が合った。
「血が濃くなりすぎて、穢れた。今の在宮には、巫女に足る清浄さは欠片も残っていない。ただ膨大な血の魔力と、それを溜める器だけ。もはや、ただの異形だよ」
「――血が濃くなるとは、どういうことだ」
「ああ、そこ、気になる?」
 無言で見返すと、東雲はへらっと笑った。
「近親交配だ。聞きたくなかっただろ?」
「……」
「まあ、何でも、大戦のときに上から求められたらしい。もっと魔力を強くしろ、もっと捧げろと。まあそれが行き過ぎた。強すぎる魔力は巫女の器に収まり切らない。在宮の平均寿命は二十年だったかな。魔力が暴走して死ぬんだ」
「避けられないのか」
「暴走を避けるには、女子を産むしかないな。次代の巫女だ。魔力を全て子供に継がせて、自分の体を空にする。その結果、暴走せずに静かに死ぬ」
 ――結局、死ぬのか。
「ここ十年ほどでどんどん減ったらしいな。生まれた子も、適性が無ければ自分の魔力の重さに耐えきれずに死ぬ。結果、現在残っているのは二人だ。今代の在宮の巫女の櫻子と、その父逍遥」
「――そうか」
 あの娘は、櫻子と言うのか。
「俺が知ってるのはこんなもんだなー。さーて次はお前の番だぞ名弦」
 東雲がテーブルに肘を突いて、身を乗り出した。
「何が」
「なんで、在宮なんかに興味を持った」
「……会合で一度も見たことがないからな」
「何年一緒に居ると思ってる。嘘だな」
 ……隠せない、か。
 名弦は舌打ちをした。
「……この間、見かけた。おそらく在宮の娘だ」
「おう。そんでそんで?」
「それだけ」
「は?」
「うるさいな、それだけだ。他には何もない」
「そんで一目惚れでもしちゃったのか? おいおい名弦くん」
「うるさい、黙れ。口を裂くぞ」
「やだ怖い!」
 名弦は眉間にしわを寄せて、コーヒーを啜った。香ばしい香りが鼻を突く。
「別に、どうしたわけでもない。何となく気になった」
「ふーん?」
 東雲はにやにやとだらしなく口角を緩めた。
「そうか、名弦にも春が」
「黙れ」
「しっかし、在宮かー。うん、まあ、いんじゃね? うん。お前、見てるだけじゃなくてもっと積極的に行けよ。お前は無口だからもっと喋れ。あと、その能面スタイルもなんとかしろ、女子供が見たら泣くぞ、その顔は」
「うるさい、黙れと言ってる」
 カップを置いて、代わりに伝票を持って名弦は立ち上がった。
「貴様の鬱陶しさには辟易したが、それを差し引いても助かった」
「前半部分がなければいいんだけどねえ」
「また連絡する」
 椅子の背にかけていたコートを手にとって、名弦は東雲に背を向けた。
「櫻子さんによろしく」
 その言葉を背に受けて、もう一言くらい罵倒をしてやりたかったのを堪えて、名弦は会計へ向かった。


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