死ぬときは、わたしのことを笑う奴を全員殴り殺してからにしようと思うのだ。
不思議と、たいへんおだやかな気持ちでそう考えた。
嘘だった。
穏やかなわけがない。全然穏やかではないのだ。しかしそうとしか表現できないような凪いだ心象だった。現に、見る気もしないけれどわたしの顔はぴくりとも動いていない。笑ってもいない泣いてもいない。表情なんか気にするのは自分だけだということを知ってからひとりのときはいつでもこうだった。笑えばかわいいのにと言う人間がいることも知っていたがそれを社交辞令だと見抜く程度の目は持っていた。
神さまわたし人間のクズでした。
神さまわたしどうして生まれてきたんですか。
神は罵倒されるために存在するものなのだろうか、それならうなずける。
ああ、
わたしは膝を抱えた。
わたしの自殺を誰も笑わない世界が欲しい。自殺は愚かだ、そういう風潮をわたしは知っている。いろんないろんな本でも読んだ。
しかし、果たしてそうだろうか?
わたしのこの救いようのなさを諦めてしまうこと、その感情の振れを愚かだと言うのなら、そんなことを言う人間の方が愚かなのだ。正しくて、愚かだ。
正しい奴が正しいことを言っているとき、きっと彼らは無敵である。
そこにわたしのようなクズが何か反論をできようはずもない。クズに共感するのはクズだけである。所詮クズがあつまったところで一人の正論には勝てないのだ。だから殴り殺したい。きっとわたしのようなクズのために暴力はある。クズが正論に勝てない憂さを晴らすためにあるのだ。暴力は神がクズに与えたもうた唯一の武器である。
クソが、世界、滅べ。
そしたらわたしも死ねるのに。ささやかな尊厳を死後に踏みにじられることもなく死ねるのに。
正しさは時に自覚もなく冒涜的だ。
あーあ死にてえ。
© 2008- 乙瀬蓮