五月十八、水曜日、まだ、カーネイションは枯れません。わたしは、窓際に頭を垂れる赤い花を見て、そっと瞬きをしました。
その花びらはまるでびろうどのようにしなやかで、その赤色は何に例えようもなく深い色味を帯びています。
窓の外にはしずかな雨が注いでいます。
フラワーショップにおじゃましようと思ったのは、その日が母の日だったから。
幼稚園の頃を思い出して、わたしは小銭を握りしめ、自転車の鍵をあけました。
日頃からあまり出歩くのが好きではないわたしは、自転車に乗るのも久しぶり。午前の光が肌に眩しく、もう春も中頃といったところで、風もこころよいつめたさでした。
わたしの家から、自転車に乗って十二分。大通りから少しはずれた、日当たりの良いこぢんまりとしたお花屋さん。通学途中に何度も見かけてはいたのですが、入店するのはその日が初めてでした。
お店の前には数千円からのお花をアレンジした鉢ばかりあって、わたしはすこしおののきます。しかし、お花屋さんです。一本から売っていないだなんて、そんなことはないはずです。
少しだけ勇気を出して、私は店内に足を踏み出しました。
いらっしゃいませ、と声を出したのは、高校生のわたしと年も変わらないようなお姉さん。レジが乗った台でフラワーアレンジをしているようでした。
お花をお探しですか、と尋ねられ、わたしは少し躊躇いながら、はいと答えました。
店内には当然のようにお花が溢れ、色とりどりの絢爛に目が眩みそう。花の豊かさとは反対に、それを支える花瓶が皆銀色の無機質なものであることにも目がとまりました。
ああ、ここにはお花がたくさんあるけれど、それを飾るところではないのだ、と思いました。わたしはお花屋さんのお姉さんと目を合わせ、ちいさく尋ねました。
「カーネイションは、ありますでしょうか」
わたしの言葉を聞いたお姉さんはすこし目を見開いて、それからころりと微笑みました。
「ええ、ありますよ」
はさみを置いて、台を回り込むようにしてこちら側へ来たお姉さんは、慌てて通り道を開けたわたしに軽く会釈をしてから、花瓶のひとつを指さした。
「これと」
お姉さんは、次々に指を指していった。
これと、これと、これもそう、これもです。これもですね、これはちょっと毛色が違いますが、カーネーションです。
それは本当にカーネイションなのですか。
思わず尋ねてしまいそうなほど、カーネイションには様々な種類がありました。
カーネイションと言えば、赤い色のものしか知らなかったわたしですが、どうやら、チューリップやあじさいなどと同じように、カーネイションにも様々なものがあるらしいのです。
きれいな、薄い橙色と白のまだら模様。薄紅色の、可憐な一輪。そして、目にとまったのは、美しい艶やかな深紅のカーネイションでした。
保守的なわたしは、いろいろ目移りしながらも、なじみ深い赤いものを指さしました。
「これを一輪ください」
「かしこまりました」
お姉さんは、にこにこしながら花瓶から一輪ひきぬいて、ラッピングを始めました。
その手元を眺めながら、わたしは家にある大きいグラスのことを考えました。もらい物のコップなのですが、その大きさから全く使われていません。
わたしはそれを花瓶にすることに決めました。
「『お母さんありがとう』のシールは貼りますか?」
お姉さんが、悪戯っぽく微笑みました。
そのことばに少し驚いたわたしは、思わず頷いてしまいました。
しとしと、雨が降っています。
あの日お姉さんから花を受け取ったわたしは、家に帰って、そのラッピングをほどきました。ていねいに水切りをして、想像していたとおりにグラスに活けました。
そして、自室にそれを飾りました。
お姉さんはなにか勘違いをしていたように思います。
わたしは、このカーネイションを母に贈るつもりなどなかったのです。
自然にうまれたため息を消費して、わたしは首をかたんと傾けました。
わたしは自分の質素な部屋に飾る花が欲しくて、その日が偶然母の日だったのでカーネイションを連想しました。本当に、ただ、それだけだったのです。
たしたし、屋根に、雨粒が当たります。
わたしは静かに目を伏せました。
悪いことなどしていません。
悪いことなど、考えていません。
どうして、こんなにむなしい気持ちになるのでしょうか。
わかりません。わたしにはわかりません。思いつきません。
ただ、どうしようもなく、このカーネイションを渡したら見られたはずの母の笑顔を想像すると、喉が締まってゆくのです。
五月十八、水曜日、カーネイションは枯れません。
まだ、しばらくは、枯れません。
カーネイションは、枯れません。
筆者、今年は赤いカーネーションを購入しました。まだ枯れていません。
© 2008- 乙瀬蓮