群青




C02-A002
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 氷のような印象の三島桂に案内された喫茶店は、警察署から徒歩数分の位置にあった。喫茶店、雨宮。日本語の店名ばかり見るが、この島の喫茶店の主は外来語が嫌いなのだろうか。これまで一縷が見てきた喫茶店は、ほとんどが日本名である。マスターはほとんど日本人だ。たまに外国の人も居る。
 注文したオレンジジュースを口に含んで、一縷はじっと三島がコーヒーを啜る様を見つめた。
 店内には、会話の邪魔にはならないように配慮された音量で、重低音……ベースを主旋律としたジャズが流れている。しんしんとしていた。シューシューと耳にくすぐったく聞こえるのは別の客が注文したコーヒーをマスターが抽出する音。テーブルの上に置かれたグラスの影が揺らめくのは、天井に据えられた照明が仄かにちらついているからだ。深い森のような落ち着いてまとまった雰囲気だった。思い出すのは今日の昼の人間椅子である。思えば、まだ今日なのだ。濃い話ばかりで寿命が削れていく気がする。
 一縷はオレンジジュースを嚥下した。ああ、調和のとれた店内で、強いて言うなら、この酸っぱい味こそが、その調和を乱しているかもしれないなと思った。
 三島はカップの縁にくちびるをつけるだけで、なかなかコーヒーを飲まなかった。
 三島桂が所属する、肆戸統轄機関が何をするための組織なのか、一縷はよく知らなかった。一縷の同級生だって、あるいは両親だって、それを良くは知らないだろうと思う。けれど一縷たちは、その名において封鎖されている地区や地下道を知っているし、その名において差し押さえられているビルも知っているし――その名において為されている研究だって、知っている。最後のひとつに関しては、一縷に限った話かもしれないが。
 紫機流が、統轄機関の下の研究所に所属していたのだった。
 けれど、一縷は機関について何も尋ねなかった。
 それで一縷たちの生活に何も支障はなかったし、それに、機関についてはどこか禁忌的な印象があった。彼らが何をしていようと、聞いてはいけないと思っている。それはこの街に暮らす誰もが同じだろうと思う。誰も知らないのだ。誰も知ろうとしないのだ。それは興味が無いからか。関わってはいけないとどこかで薄々気づいているからか。
 その機関の幹部と、自分は喫茶店に居るのだと、そう考えると、すこしだけ背筋が冷たくなった。
 いつも一縷はこうだった。夜中に幽霊の存在についてひとりで深く考え込んで、背後に誰かの気配を感じる。何かについて深く考え巡らせる都度、おばけなんてないさと子供のようにくちずさんで気を紛らわせたりもする。
 かちゃ、とコーヒーカップが皿の上に戻された。それを目で追う。三島は一口も飲んでいないように見えた。
「さて」
 三島のその声に、一縷は顔を上げた。
「事実関係を確認したい。君が家を出てから死体を発見するまでのことを、順を追って全て教えてくれ」
 家を出てから?
 警察では、そこまで遡っては聞かれなかった。一縷は僅かに戸惑った。一度オレンジジュースを飲み下す。
 しかし、そう――特に、拒む理由はない。
 そして、ゆっくりと記憶の糸をたぐっていった。目を伏せる。
「まず、家の鍵をかけました」
 ちらりと三島を伺うと、彼女はじっと聞く姿勢のままだったので、一縷は話し続けることにした。
「ポケットの中の鍵をいじりながらマンションのエレベータに乗って、一階へ降りました。一緒にエレベータに乗った人は居ませんでした。それからマンションのロビー、玄関を順番に抜けて、通りに出ました」
一縷は再び目を伏せる。そう、あの時も、いつもそうするように、ポケットの中で携帯を握っていた。
「住んでいるマンションは秋椿通りにあります。秋椿十字でバスに乗って、紫陽花通りで降りて、そのまま潜坂のスクランブル交差点を歩いて、偏執市場のパラノイドまで行きました」
 依頼人との話は承諾を得て省略させて貰った。
「パラノイドからの帰りは、来た時と同じ道を辿るつもりでした。潜坂の大通りを再び渡って、紫陽花通りまで行く途中、路地を歩いている最中に、ちょっとした誘拐未遂に遭いました」
「……何?」
 三島は眉を顰めた。
「どういうことだ?」
 軽く流していたが、そういえばこれも大事だ。
「ああ――何だったんでしょうね、あれは。紫陽花通りの近くで、白いワゴン車に連れ込まれかけました。窓を割って外からドアを開けて脱出したんですが――」
「どういった件でだ?」
 まるで一縷の側に心当たりがあるかのような言い方はやめてもらいたい。
「わかりません。そもそも、その男とは初対面で」
 ずきん、と再び頭が痛んだ。ぴくりと右の眉が痙攣する。
「本当に心当たりは無いのか」
「……?」
 いやに疑われるので、思わず三島の顔を見つめると、彼女は一度首を振った。
「――すまない。どうにも、先入観がある。君が紫機流に似ているので、予断を入れてしまうようだ」
 三島は相変わらずの渋い顔で、コーヒーを啜った。
「え――」
 一縷は僅かに目を見開いた。
「紫機を、叔母をご存知なんですか?」
「高校の時に同級だった。話を脱線させて申し訳ない。続きを聞かせてくれ」
 ――紫機流の通っていた高校はエスプレッソのような濃度だったようだ。
 しかし、一縷はそこで少し言葉に詰まった。葛の外見について話そうとしていたのだが、葛が着ていた白いワンピースのデザインについてはよく覚えていないことに気がついたのだった。半袖だったような気も、ノースリーブだったような気もした。どうでもいいことだろうか。代わりに、髪についてはよく覚えている。前髪は綺麗に揃っていて、後ろ髪はうなじの辺りで切ったものがすこし伸びたような髪型だった。
「苑宮葛さんは何かから逃げてきたように右の路地から飛び出してきたので、初めは誰かに追いかけられているのかなと思いました。けれど彼女は私にぶつかって、ほっとしたような表情をしたので、追われているわけではないと思いました」
「それは何故?」
「私がもし追われる身だったとしたら、誰とも知れない人にぶつかって安心はしません。むしろ、更に怖がります。掴まったのだと勘違いします。けれど彼女はそうではなかったので、違うと思いました」
「なるほど。それで?」
「彼女は私の顔を見て声を掛ける人を間違ったと思ったのか、辺りを見回しました。私もイヤホンを外しつつ同じ事をしましたが、周囲に人はひとりも居ませんでした」
「音楽を聴いていたのか」
「はい」
「音楽を聴いている時、周囲の音はどの程度聞こえる?」
「あの時は、人の声がすこし聞き取りづらいくらいの音量でした。車も、アナログタイプのものやバスでなければ気づきづらいかな……」
「なるほど、わかった」
「はい。葛ちゃんは今にも泣きそうな顔をして、人が死んでいますと言いました。私はそれはどこでと聞きました。彼女は今自分が出てきた路地裏でだと言いました。他に人は居なかったようです。だから、急いで誰かに知らせようと思って走っていたのかなと思います。これは推測です」
「ふむ」
「そして、私は右手にあった細い路地に入っていきました。光が届いていませんでした。目に慣れたころ、まず最初に人が倒れていることがわかりました。路地に入るまでは、本当に人が死んでいるのかどうか、つまり、先に通報すべきは110なのか119なのかを判断しようと思っていましたが、胸にナイフが刺さっていること、目が見開かれていて、瞬きを一切していないことを見て、死んでいると思いました。そして、その場で警察に通報をしました。通報が終わってから通りへ戻ると、苑宮葛さんは居なくなっていました」
 そして、警察が来るまでその場で待ち、警察と一緒に警察署へ行き、そして、今です。
 一縷がそう言うと、三島は数秒黙ってから、頷いた。
「なるほど。……大変わかりやすかった」
 三島はコーヒーカップを持ち上げた。そして、目を瞑って、一口啜る。それを見て、一縷もテーブルの上のグラスを持ち上げた。それは結露していて、水滴が一縷の指についた。オレンジジュースが入ったグラスの水滴なのに、オレンジ色じゃないのはどうしてだろう、と考えた。
「……とても助かった。協力、感謝するよ、一条一縷。この後も何か話を聞くかもしれないので、連絡先を控えておきたいのだが、構わないだろうか」
「あ、はい、大丈夫です」
 これで終わりなのか。そう思いながら、一縷は携帯をパーカーのポケットから取り出した。数回のタップを繰り返して、アドレスを表示させる。それを三島に向けて、テーブルの上に滑らせた。
 三島はそれを自分の携帯でスキャニングした。
「ありがとう。……さて、これは言おうかどうか悩んでいたのだが、君の話は整然としていて大変聞きやすかったので、伝えることにしようと思う」
「え? あ、ああ、はい、ありがとうございます……?」
「戸籍を照合したところ、苑宮葛という人間は存在しない」
「は……え?」
 三島桂は、携帯をしまいながら、テーブルの上の伝票を持ち、代わりにそこに名刺を置いた。
「もう一度言う。苑宮葛という人間は、存在しない。正確に言えば、『苑宮葛』の戸籍は存在していない。警察の事情聴取の調書が回ってきてから数時間、機関内では第一発見者の少女が実在しているかどうかという議論が為されていたのだが、話を聞いた私は、論点がそこではないことを確信した。だから話した。まあ、君が香屋埜ジンの店で働いており、一条紫機流の親類である以上、どのみちこの情報は君のところへ行くと判断したから、でもあるが」
 三島はスーツの襟を直した。
「それでは、一条一縷、捜査に協力してくれて本当に感謝している。またそのうちに会おう」
 あ、はい、また……。
 そうとしか言えない一縷を残して、三島は颯爽と歩い ていった。
 存在、しない……?
 一縷は、無意識のままテーブルの上のグラスを持って、口を付けた。そして、啜ったオレンジジュースが気管に入って、盛大に咽せた。
 喉がやけつく。
 存在しないって、何だ。
 そう思いながら、一縷はオレンジの香りに咳き込んだ。



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