目薬が差せません。


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メルティチョコレエト



 あのね、で始まった彼の言葉はそれはそれは流暢にのべつ幕無し続くのだった。それは教室で静かに大正時代の文学小説を読んでいる姿とは打って変わっており、放課後一緒に下校するときの恥じらうような遠慮しがちの様子ともまた違うものだった。
 ぼくを見上げるその顔はまるで見たこともないほど蕩けるように笑んでいて、彼は心底幸せそうに見えた。その幸せはなにか決定的にずれているけれど、幸せそうなことに変わりはないからぼくまでずれてしまいそうな気配がした。
 細くて柔らかい亜麻色の髪を揺らして、彼は首を傾けた。
「あのね、あのね、ぼくがチョコレエトになるに当たって、まずぼくが悩んだのはね、ぼく自身がチョコレエトになるかチョコレエトで僕を模すかということだったんだ。けれど、チョコレエトで模したところでそれはぼくではないのだから、きみは苦手な甘いものをぼくがあげたという理由だけで食べ切らなくてはならないでしょう? それはきみが辛いだろうなあと考えて、だからぼくはぼくがチョコレエトになるしかないと思って、そう、そこまではすんなりと決まったんだ」
 まず最初に躓いたのはチョコレエトの温度だった、と彼は言った。彼はまるで理科の実験結果の発表をするときのように、用意された原稿を読み上げているように、理路整然とした理屈を語った。ああいや、真面目な彼のことだから実際にそれくらいしても、おかしくはないけど。
 おかしくはないと思ってしまったことが、じわりとぼくの頭を蝕んだ。
 おかしくないか? おかしくないのか?
 それでね、と彼が続けたので、ぼくは否応なしにうんと答えた。そうさせるだけの雰囲気がこの部屋には満ちていた。
「ぼくがチョコレエトになる方法もいろいろと考えたんだけど、やっぱり一番現実的だったのはぼくをチョコレエトで覆うというものだったんだ。ね、そうでしょ? そうだよね? チョコレエトでぼくを模す案でも問題になったことだったけれど、チョコレエトでぼくを作ってしまうと実際にきみが食べることになるチョコレエトの量が尋常じゃなくなってしまうじゃない?」
 尋常じゃないのはお前の様子だ、と思うのに、ぼくの口はそうだなと動いた。
 同意を受けて、彼は嬉しそうに頷いた。
「そうなると、やはり溶かしたチョコレエトをぼくに纏わせるのが一番いいよね。で、そこで温度が問題になるんだ」
 彼はどの温度でチョコレエトが融解するか、それをどのような行程を経て滑らかにするか、そしてそれがどの温度なら食べやすいのかについて、それぞれの仮説から検証をわかりやすく解説した。
「ぼくが火傷するぶんには別に構わないのだけど、きみが舌を火傷するのはつらいからね」
 長い睫毛がぱちりと瞬いた。
 そして、照れるように微笑んだ。
「えへへ、ごめん。ちょっと頑張ったから、自慢したくなっちゃって」
 ぼく、すごい?
 褒めて貰うのを待つ犬のように、彼はぼくを見上げた。
 ああ、
 ああ、すごいんじゃないかな。
「ほんと? ありがとう!」
 彼は何の躊躇いもなく溶かしたチョコレエトが光るボウルに手を突っ込んだ。ああ、制服の袖をまくらなければ、汚れてしまうだろう。そんなことをふと考えた。
「それじゃあ、食べてくれる?」
 どろぉ、と彼のしなやかで細い指先から滴ったチョコレエトのしずくを見遣って、ぼくは糸が切れたようにただただ咽せるような甘い香りの中で呼吸をくりかえすのだった。





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