未必の戀の返りごと

10枚


天邪鬼
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「だめ」
 この少女は、意外と察しが良い方らしい。
 切羽詰まったふうのある声色に、貴臣はくすりと笑った。
「何が?」
 格子のこちらがわから除く檻の向こうはそれは殺風景なものだったけれど、少女の――諌名の生活が垣間覗ける気がした。彼女の側にある文机の上には昭和の時世の詩集が数冊積まれ、枕元には使い込まれた風の柘植の櫛が置いてある。諌名の母親のものだろうか?
 それをもっと近くで観たかった。
 わざとらしく、ぐるりと視線を回す。少女の声に焦りが増す。
「だめだって言ってるでしょう? やめて、だめよ、こちらを見て」
 こちらを見て、というのにやられた。
「あ」
 思わずあげてしまった声を護摩化すように言葉を探して、
「見つけた」
 檻のこちら側に作りつけられている鈎に、古びた鍵が掛けられているのに気がついて、貴臣は遠慮せずにそれに手を伸ばした。
「これで開くのかな?」
「ちょっと、待って」
 諌名の声がとうとう弱る。
「お話を……する、だけでしょう……それを使う必要はないわ」
 貴臣は笑うに留めた。
「あまりこちらに来ないで」
 諌名に目を向けると、彼女は、シリアルキラーから逃げる子供のように壁際へと寄っていた。
「開けては……だめよ」
「うん」
 貴臣は、畳に膝を突いて、南京錠を左手で支え、右手に持った鍵を差し込んだ。
「……? 今、わたし、開けないでと言ったの」
「聞いてるよ。開けちゃだめなんでしょ」
 かしゃん。
 古びた外見をしているわりには、滑らかに鍵が開いた。
 丁寧に扉から取り外して、ぽいと投げる。
 諌名を見ると、彼女は何が起こったのかまだ認識できていないような様子でこちらを見ていた。
「開けてはだめ、よ」
「うん」
 貴臣は目を細めた。
「だめなんだ」
 ゆっくりと、含みを持たせて、口にする。
「そっかぁ」
 檻に指先を掛ける。蝶番がこちらについている。
 諌名は、壊れかけのからくりのように首を傾げた。
「聞こえないの」
 何をされるのか。
 貴臣が何をしようとしているのか。
 想像できたようだった。
 貴臣は、にっこりと笑った。
「それで、あまり、そっちに行っちゃいけないんだったっけ?」
「……やめて」
 檻に掛けた指を、わざとゆっくり絡めて、力を込める。
 諌名はまるで直接絞められているかのように、細い首に手を当てた。
「ごめんなさい、さっきのは、取り消すわ。お話も、できません。お帰りください」
「お話もできないんだぁ? それで、言葉を取り消したくて、俺が帰った方がいい?」
 木でできた檻を撫でながら笑いを堪えると、諌名は、貴臣の指を見つめたまま苦しげに目を細めた。
「……」
「ねえ、俺が何をしようとしてるかわかる?」
 笑いを堪えきれなくなって、肩が震えた。
「わからない」
「うそつき」
 諌名は、びくっと肩を震わせる。その視線は貴臣の指先に注がれたままだった。
 静かに、そっと、囁くように。
「諌名ちゃんが嘘をついたから、諌名ちゃんのお願い、ひとつ聞かないことにするね?」
 貴臣は、檻の戸を開いた。諌名は目を瞑って、身を縮めている。
 数秒間の静寂が訪れた。
 開いた戸から、中に、這入る。
「……お願い」
「何が?」
 ぱん、とスラックスの皺を伸ばして、貴臣は聞き返した。
「……帰って」
「俺はもうちょっと諌名ちゃんとお話したいから」
「……帰って!」
 諌名が声を大きくした途端に、きちんと積まれていたはずの詩集が文机から崩れ落ちた。
 貴臣が瞬きをすると、諌名は自分の喉を押さえて、俯いていた。
 さっきまで、あんなに姿勢が良かったのに。
「……ごめんなさい」
 諌名は、顔を上げて、貴臣を見上げた。
 その表情は張り詰めている。
「ほら、今の、わたしのせいなのよ。怖いでしょう? わたしが、あなたに酷いことをしてしまう前に、帰った方がいいわ」
「何であれが崩れたの?」
 尋ねると、もう諌名は反抗的な様子も見せずに、ただ殺されるのを待つように答えた。
「嫌だったから」
「よくわかんない」
「わたしにもわからないわ。でも、あなたは、自分の腕がどうして動いているのか説明できるの」
 貴臣は自分の腕を持ち上げて、手を握ったりしてみた。
「こういう感じ?」
「そういう感じで、あなたをきっと殺せるの。だからわたしはここから出てはいけないし、ここには人が近づいてはいけないのよ」
「不思議だね」
「不思議じゃないわ。わたしの血がいけないの」
「血?」
「穢れているせい」
「そっか」
 きっとこの子はわかっていない。
 穢れがどれほど貴臣に相応しいものかを。
「ねえ諌名ちゃん、俺、吸血鬼なんだ」
 諌名は、まだ貴臣が踵を返さないのが不思議でしょうがないといった様子の無表情で首を傾げた。
「そう」
「諌名ちゃんの血を吸ってもいい?」
 諌名は目を見開いた。
「そんな……そんなこと、だめに決まっているわ。あなた、わたしの話を聞いていた?」
「ああ、駄目なんだ」
 そっかぁ、と繰り返すと、諌名はゆっくりと首を横に振った。
「待って……」
「あ、想像した? うん、そうだよね、さっきの今だもんね」
 貴臣は、一歩、諌名の方へ踏み出した。
「来ないで」
「来ないで」
 一歩。
「……近づかないで、」
「近づかないで」
 一歩。
「お願い、やめて」
 目の前に。

 貴臣は、畳に膝をつき、諌名の頬に手を当てた。貴臣よりも冷たい。
 そして、有無を言わさず、そっと、持ち上げて視線を合わせる。困惑したような瞳が最高に扇情的だった。
 ああ、やっぱり。
 思ってた通り、そういう顔がいちばんかわいい。
「じゃあ、吸血はやめてあげるね」
 涙の溜まった瞳が呆気にとられたように揺れる。何かを言おうとして、それがまた返ってきたときのことを想像したのか、自分で黙った。
「だから、俺と一緒に来てくれる?」
 いまこの少女が感じているのはどんな感情だろうか。嫌悪だろうか。昂揚だろうか。この世の中に存在するあらゆる文学性を費やした語彙で語ってほしかった。同時に聞かずともいいような気もする。貴臣は結局のところ、どうしようもなく後者なのだから。
 知り合い共と行った人形展の、アクリルケースの向こう側に在ったもの。
 惹かれたそれの根幹にあるもの。
 触れた、冷たく、滑らかな、頬と、手折れるようなこの女の細い頸こそが、きっと。
「どっちがマシかな、諌名ちゃん」
 そう訊くと、彼女は、疲れたように目を伏せて、貴臣の手に頭を預けた。
 そして、小さく、呟いた。
「知らない」



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