未必の戀の返りごと

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白藍の空に思い出す顔などその時は未だ
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 鳥の鳴く声が聞こえた。
 他に音はない。
 いつからかはわからないが目が覚めてからずっと天井板を見上げていた諌名は、その視線をゆっくりと窓の方へ向けた。
 窓の格子の向こうに、朝が広がっている。
 どこかしとやかな朝だった。そう感じるのは、鳥の声がどこか遠くに聞こえたからかもしれない。
 諌名のいる部屋から、昨日の朝よりもすこし遠ざかった。
 浅く息を吸う。
 諌名は、いつもそうしているように、ゆるやかに目をつむり、呼吸をとめた。
 外界から隔絶された部屋で、諌名は今日も死んでいなかった。それは、埋葬を待つ柩にも似ている。穏やかに、ひたすらに、安らかに。植物のように。確かなことは、この部屋は諌名と共にずっと停滯していてくれるということ。
 じわりと靄がかかり、思考が滞ってきたのを感じて、諌名は呼吸を再開した。
 このように息を止めていたらそのまま呼吸なんかしないでいられるようにならないかしら、と諌名は毎日試しているのだが、どうにもそのような体には作り変わらないのだった。努力が足りないのだろうか。
 諌名は腕をついて体を起こした。縷々として追隨する、糸のあつまりのような黒髪を纏めて、体の前へと持ってくる。結ぶための紐が無いので、諌名の髪は毎日耳にかけたり前に持ってきたり後ろに持って行ったりしてやり過ごしている。すこし鬱陶しいが、切ることはできないので仕方がない。
 髪を纏めるために持ち上げた腕から、夜着にしていた浴衣の袖が滑った。
 とにかく諌名には軽やかさというものが生まれた時から欠けていて、起きてすぐはそれが特に顕著に現れる。ただ髪と體の重みに任せて項垂れていた首筋を伸ばすため、顎を上げるようにしてもう一度嵌め殺しの窓枠に視線を向けると、あわく、白と碧がきれいに混ざった美しい朝の空が借りられていた。目を細める。
 きれい。
 この十四年の空虚な生涯で学んだ教訓がひとつだけ存在する。
 それは、誰も足を運んでくることのない部屋で空を眺めて過ごしている限り、どれほど諌名が罪深い存在であろうとも、誰のことも傷つけないで済むということだった。
 誰を傷つけることもなくただ余命を費やしていられるのならば、それが一番静かでいられる。自身のはた迷惑な体質をこのまま死ぬまで飼い殺していたいというのは、諌名がこの世で唯一つ執心する、祈りにまで届きそうな願いだ。
 外は四月になった――と思う。この座敷牢の外には、そろそろ、春が来るだろう。
 それが少し複雑だ。
 また年をとってしまうということが。
 人間でなくなってしまいたい諌名は、それが叶わないならば早く死んでしまいたい。
 以前まだ諌名が生家で暮らしていた頃に読んだ本に「人肌は暖かい」という記述があったのを覚えている。
 諌名は青い血管が透けて見える手を持ち上げて窓の光に翳した。
 だとすれば、諌名は、春が嫌いかもしれない。
 そして、きっと、人の肌も嫌いだろう。
 暖気というのは――陽気というのは。まるで当然のように諌名の体を蝕んで、要らないときまで温めて、ただでさえひどく曖昧な諌名の体の輪郭を、ぼかしてしまうような気がした。ぼかして、ぼかして、曖昧になった浸透膜から、諌名の中身が漏れだして、世界と溶けて混ざってしまうのが怖かった。
 冷たいままで構わなかった。
 せめて、この部屋の中だけでも。
 目を瞑り、叶わぬと知る祈りを朝日に捧げる。
 どうぞ、このまま葬ってほしい。冷たい空気の流ぬままに、閉じこめて、もういっそのこと忘れてほしい。
 そんなことは許されない、という感覚だけが、どうしてか鮮明に胸のうちにある。
 けれど、諌名には、どうしてそれが、誰にそれが、許されないのか、そういうことは、わからないのだった。

 諌名が衣を着替え、身支度を整えぼうっとしている頃、格子と簾の仕切の向こうで襖が開いた。自分の世話役の少女が頭を垂れている姿を見て、諌名は微動だにせぬように気をつけながら、ゆっくりと瞬いた。彼女は、規範どおりに、けして部屋には入ろうとせず、ただ伏した視線だけを諌名の足元へ寄越す。
 おはようございます、と投げかけられた言葉は、諌名に返事を求めてはいない。それをわかりきっている諌名は、少女に焦点を合わせるだけに留めた。
「本日はお客様がお見えになるので、在宮さまにおかれましては、けしてこのお部屋から出ることのないようにと、当主よりの伝言でございます」
 粛々と告げられた言葉に、諌名はわずかに視線を揺らした。
 この苑宮の社に、他者が訪れることは、諌名が身を寄せているこの四年間で一度も無かったことだった。
 そうであるからこそ、諌名は安らいでいられるのだ。
 諌名が心安らかに無害でいられるのは、誰も近づいてこない場所でのみだから。
「よろしいですか、在宮さま」
 確認するような声と共に睨み据えられ、考えに耽っていた諌名は我に返り、頷いた。
 この部屋から出ようなどと思ったことは一度もない。今日もきっとそうだろう。
 諌名のその様子を見て少女はひとつ頷くと、襖を閉めて立ち去った。
 そして、諌名は、出ようと思ったところでここから出ることなどできないのだ。
 視界の全てを塞ぐ重厚な木の格子越しに、世話役の去った襖を眺めて、諌名はゆっくりと、今日が暦の上で一体何日だったのかを思い出す作業をはじめた。



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