「春を鬻ぐってさあ」
雪の塊に乗り上げてがこん、と車体が揺れたので、舌を噛みそうになった貴臣は一旦口をつぐんだ。
車窓に映る死にかけの自分の顔を見ながら、自分はやはり朝に起きる生き物ではないらしいと感じた。起き上がっていていい顔色に見えない。
土曜日、午前八時三十分。貴臣は、行き先もわからないまま車の後部座席で揺られていた。
自室のベッドで健やかに眠っていたところを文字通り叩き起こされ、半分以上眠ったまま御堂島に着替えさせられて、そのまま半ば担がれて車に突っ込まれたのだ。いつきちんと目が覚めたかも定かではない。向かう先はどうやら山のようだが、市倉の家に行くにしては方向が違うようにも思う。とかく茶会を開くことだけを趣味にする老人がこの島には多数生息しているので、そのひとつに貴臣が呼ばれたのかもしれないが、しかし貴臣が茶会を好かないことはもう島内外に知れ渡っているので、少し不思議ではある。
「臣、なんか言ったぁ?」
助手席に座っている御堂島が尋ねたので、貴臣は思考を中断してさっき喋りかけたことを思い出した。途切れてみるとどうでもいいことだったが、まあ暇だけは持て余している。
「別にどうでもいいんだけどぉ、賣春とかって、雅びな言い方するよね。なんか直視してないみたい」
春を鬻ぐ。春を売る。春を買う。女の中に春を見たやつは、どこに目をつけていたんだろうなと思う。そういうものなんだろうか。
はあ、と貴臣は吐息を窓ガラスにかけた。
そういう機会は無いでもなかったが、楽しかったこととなると一度もなかった。
未だ春ではない。
四月は春ではない。
四月は女ではない。
ゆるりと目を細める。
どうしていきなり春のことなどを考えたのだろう。自分の声から記憶を辿るが、どうにも喋る以前は記憶が曖昧だ。
ああ思い出せないことが気になる。
僅かに苛立って、貴臣はとん、とドアの肘掛けを指先で叩いた。
「露わにすると下品だからね」
御堂島の声がすっと貴臣の思考の軌道修正をした。
「直接的であることは下品なんだよ。俺はそういう暈した言い方好きだな、日本的で」
「元から下品でしょぉ? なんか上品ぶってるんじゃないの」
「大人は露惡趣味を好かないっていう話」
貴臣はきゅっと眉をあげた。
俺、お前よりもずっと年上なんですけど。
――いや真っ先に思い浮かぶことがそれかよ?
あ、あー。ああ、露惡趣味の定義と、大人の定義と。子供扱いすんなよみたいな。こととか。
それを明確にしなければ言葉が続けられない。
はあ、と溜め息を吐いて姿勢を崩した。
このような曖昧な言い方をされると古い世代の人工知能のようにショートしてしまう貴臣の思考囘路を知っていながら、御堂島はよくこういう言い方をする。本当に一回はらわたを引きずり出して殺してやりたいやつである。脳味噌の皺に沿って一本の綱を作って腸と結んであやとりしたい。こういう時は、つまり、深く掘り下げるなというサインを送ってきているわけだが、貴臣としてはサインを受信するたびに不快になるので『この話やめよ』と言われる方がマシである。いや、それはそれで不愉快になるに違いはないのだけれど。
不快度を下げるために、貴臣は首をぐるんと回して声をかけた。
「御堂島ぁ」
「なぁに、貴臣」
「これ、どこ行き?」
尋ねると、御堂島は一瞬黙った。あは、と癇癪球くらいの勝利を味わう。こいつが予想外の質問に弱いことは知っている。これを頻繁にやると仕返しを食らう。
「またどっかの暇なババアのお茶会にでも呼ばれたのぉ? それにしては、随分早いけど。時間が」
「言いたくない」
「? 誰に向かって言ってる、それ?」
「んー、苑宮」
「苑宮ぁあ? 何、何の件で呼ばれたの? 俺最近は何もしてないよ?」
「巫女の血って、普通の人間のよりもおいしそうじゃない?」
「車止めろ」
声を荒らげると、御堂島はだから言いたくなかったと言わんばかりに首を落とした。車は止まらない。軽視されている軽視されている軽視されている。
「御堂島」
出た声はきっと初対面の相手でも理解できるほどに冷たかっただろう。
そして、付き合いの長い御堂島にとってはおそらく刃を向けられているに等しい声色だ。
貴臣の心臓で渦巻く鬱屈の刃をそっと鞘へ戻そうと、御堂島は優しい声を出した。
「俺だって期待なんかしてないよ、貴臣。でも、まあ見るだけ見て、いいのが居るかもしれないじゃん」
「……」
口を開いた。
そして、閉じた。
言いたいことはいろいろあった。御堂島はどうしてこういう余計なことをするんだろうか。頼んでもないのに世話を焼いて貴臣に尽くすこの男のことが貴臣はこういうときにわからなくなる。何に囚われているのか。何かを投影しているのか。俺はお前の息子でもないし弟でもない。先祖でもないし、恩もない。年齢だって近くはないし、指向性だって違っている。
どうにも信じられないのだ。
御堂島孝明という人間がこれほど自分に親切な理由を貴臣はずっと掴みかねている。
車の窓に目をやると、外の温度よりも冷え込んだ眼球がこちらを見返してきた。
そろそろ考え時かもしれない。
――何を?
反射した自分に向かって、目を細める。
一人になる方法。
「そろそろ、到着します」
それまで気配を消していた運転手の御堂島サチカが静かに声を発した。
彼女は御堂島兄妹の従姉妹であり、兄妹を除くと、御堂島家で唯一貴臣がロクに話せる人間であった。ミラー越しに見える顔は能面とあだ名される通りにぴくりとも動かない。表情筋が存在していないのではないか、と疑う者も後を絶たないと聞くが、彼女の笑顔を見ればそんな疑いはすぐに晴れるのだ。
まるで、般若かガーゴイル。
思い出して、貴臣の溜飮が少しだけ下がった。
「当主、あまり興奮しないでください。シートベルトを締めてください」
「今から着くんじゃねーのかよガーゴイル」
「ガーゴイルじゃありません。これからの三分で事故を起こすこともありえますから」
「じゃあこの上なく気を付けて運転してくださァい?」
唱うように言ってから、貴臣は思い切りシートに背中をぶつけるようにして体重をかけた。
© 2008- 和蔵蓮子