檻の向こうもそれは殺風景なものだったけれど、少女の――諌名の生活が垣間覗ける気がした。彼女の側にある文机の上には大正の時世の詩集が数冊積まれ、枕元には使い込まれた風の柘植の櫛が置いてある。諌名の母親のものだろうか?
檻のこちら側に作りつけられている鈎に、古びた鍵が掛けられているのに気がついて、貴臣は遠慮せず部屋の奥、諌名の居る座敷の方へと歩み寄った。
「ちょっと、待って」
諌名の声が弱った。
「あまりこちらに来ないで」
「この鍵、どこの……」
言いつつふと視線を落とすと、檻の扉に下がっている南京錠に気がついた。
すうっと頭の血が下りる。
「それは、この座敷の鍵」
律儀に答えた諌名に目を向けると、彼女は、シリアルキラーから逃げる子供のように壁際へと寄っていた。
「開けてはだめよ」
「なるほど」
貴臣は、畳に膝を突いて、南京錠を左手で支え、右手に持った鍵を差し込んだ。
「……? 今、わたし、開けないでと言ったの」
「聞いてる聞いてる、開けちゃだめなんでしょ」
かしゃん。
古びた外見をしているわりには、滑らかに鍵が開いた。
丁寧に扉から取り外して、ぽいと投げる。
諌名を見ると、彼女は何が起こったのかまだ認識できていない様子でこちらを見ていた。
「開けてはだめ、よ」
「うん」
貴臣は目を細めた。
「だめなんだ」
ゆっくりと、含みを持たせて、口にする。
「そっかぁ」
檻に指先を掛ける。蝶番がこちらについている。
諌名は、壊れかけのからくりのように首を傾げた。
「どうして?」
何をされるのか。
貴臣が何をしようとしているのか。
想像できたようだった。
貴臣は、にっこりと笑った。
「それで、あまり、そっちに行っちゃいけないんだったっけ?」
「……やめて」
檻に掛けた指を、わざとゆっくり絡めて、力を込める。
諌名はまるで直接絞められているかのように、細い首に手を当てた。
「ごめんなさい、さっきのは、取り消すわ。お話も、できません。お帰りください」
「お話もできないんだぁ? それで、言葉を取り消したくて、俺が帰った方がいい?」
木でできた檻を撫でながら笑いを堪えると、諌名は、貴臣の指を見つめたまま苦しげに目を細めた。
「……」
「ねえ、俺が何をしようとしてるかわかる?」
笑いを堪えきれなくなって、肩が震えた。
「わからない」
「うそつき」
諌名は、びくっと肩を震わせる。その視線は貴臣の指先に注がれたままだった。
静かに、そっと、囁くように。
「諌名ちゃんが嘘をついたから、諌名ちゃんのお願い、ひとつ聞かないことにするね?」
貴臣は、檻の戸を開いた。諌名は目を瞑って、身を縮めている。
数秒間の静寂が訪れた。
開いた戸から、中に、這入る。
「……お願い」
「何が?」
ぱん、とスラックスの皺を伸ばして、貴臣は聞き返した。
「……帰って」
「俺はもうちょっと諌名ちゃんとお話したいから」
「……帰って!」
諌名が声を大きくした途端に、きちんと積まれていたはずの詩集が文机から崩れ落ちる。
貴臣が瞬きをすると、諌名は自分の喉を押さえて、俯いていた。
さっきまで、あんなに姿勢が良かったのに。
「……ごめんなさい」
諌名は、顔を上げて、貴臣を見上げた。
その表情はまるで今にも泣いてしまいそうに張りつめている。
「ほら、今の、わたしのせいなのよ。怖いでしょう? わたしが、あなたに酷いことをしてしまう前に、帰った方がいいわ」
「何であれが崩れたの?」
尋ねると、もう諌名は反抗的な様子も見せずに、祈るように答えた。
「わからないわ。でも、わたしが大きな声を出したり、動いたりすると、ああいうことが起こるの。人を殺してしまったこともあるわ」
「不思議だねぇ」
「不思議じゃないわ。わたしの血がいけないの」
「血?」
「呪われているんですって。在宮というの」
「そっか」
それは、なんて貴臣に相応しいのだろうか。
「ねえ諌名ちゃん、俺、吸血鬼なんだ」
諌名は、まだ貴臣が踵を返さないのが不思議でしょうがないといった様子の無表情で首を傾げた。
「そう」
「諌名ちゃんの血を吸ってもいい?」
諌名は目を見開いた。
「そんな……そんなこと、だめに決まっているわ」
「ああ、駄目なんだ」
そっかぁ、と繰り返すと、諌名はゆっくりと首を横に振った。
「待って……」
「あ、想像した? うん、そうだよね、さっきの今だもんねぇ」
貴臣は、一歩、諌名の方へ踏み出した。
「来ないで」
「来ないで」
一歩。
「……近づかないで、」
「近づかないで」
一歩。
「お願い、やめて」
目の前に。
貴臣は、畳に膝をつき、諌名の頬に手を当てた。貴臣よりも冷たい。
そして、有無を言わさず、そっと、持ち上げて視線を合わせる。困惑したような瞳が最高に扇情的だった。
ああ、やっぱり。
思ってた通り、そういう顔がいちばんかわいい。
「じゃあ、吸血はやめてあげるよ」
涙の溜まった瞳が呆気にとられたように揺れる。何かを言おうとして、それがまた返ってきたときのことを想像したのか、自分で黙った。
「だから、俺と一緒に来てくれる?」
いまこの少女が感じているのはどんな感情だろうか。嫌悪だろうか。昂揚だろうか。知りたかった。けれど、どちらでもよいような気もしていた。貴臣は結局のところ、どうしようもなく後者なのだから。
三人で行った人形展、アクリルケースの向こう側に在ったもの。
少し欲しくなるくらいなんて、生やさしい感情じゃなく。
触れた、冷たい、滑らかな、頬と、手折れるような細い頸。
ただこの少女を独占したい。
ただこの少女が欲しかった。
「どっちがマシかな、諌名ちゃん」
そう訊くと、彼女は、諦めたように目を閉じて、貴臣の手に頭を預けた。
そして、小さく、呟いた。
「わからない」
© 2008- 和蔵蓮子