未必の戀の返りごと




ひとあし
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 彼女がいる屋敷は、やはり屋敷というよりも倉のような構造をしていた。一階部分は殆どが物置で、隠されるようにあった階段を昇り、長い長い廊下を抜けて何度も角を曲がって襖をいくつも開けて、ようやく見つけたその姿は、壁一面に張り巡らされた木の格子の向こうにあった。
 座敷牢。
 檻の向こうに居る彼女はどうしてか酷く相応しく見えた。
 うつむき気味だった少女の顔が持ち上がった。それは何度も何度も練習した動作であるかのように、洗練されて見えた。濡れ羽色の髪が重ねた着物の上を流れて床にわだかまり、縷々と動きに付随する。絵に描いたような完璧な光景。差す陽光は彼女の睫毛の影を白磁の肌にそっと落としていた。濡れたように光る大きな瞳が格子越しに、しかし真正面に貴臣を捉えた。
 ああ、もうこれは、元が取れたな、と貴臣は思った。
 この陽光の下の少女を毎日見られるなら今日のこの理不尽な早起きと拉致すら許せる。
 これは、学校の遅刻率が減るかもしれない、と考えていると、彼女の唇が開いた。
「お帰りください」
 想像していたよりも低い声だった。涼やかで、玲瓏なその響きに囚われたのだろうか、貴臣は思わず頷いてしまいそうになった。危ういところで踏みとどまって、問い返す。
「なんで?」
 彼女の黒い瞳が大きくなった。この人形じみた少女は意外と人間みたいな動きをするらしい。
 貴臣は考え直した。
 これは、遅刻率が減っても、早退率が高まる。
 触ってみたい。
 どうやって稼働するのか。
 触れてみたい。
「お帰りください」
 少女は、さきほどと同じ、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で繰り返した。それは、どこか機械に似ていた。プログラムされた文章を出力しています。そんな雰囲気を感じた。もしかして、この少女はロボットだろうか?
 研究所ではなく社に居るというのが如何にもアンバランスでそれらしい。
「ここは人が来てはいけない場所なの」
 囁くような声に、貴臣は首を傾げた。
「だったら、問題ないかもしれないよぉ? 俺、ばけものだから。人間じゃない。怒られないと思うよ、別に」
 そう告げると、少女は、貴臣と同じように首を傾げた。見間違いだろうか、彼女の髪の動きに光が付随したように見えた。
「ばけもの」
 外国の単語を発音するように、少女の声は片言だった。それが愛しくなって、貴臣はただ目を細めた。それが罵倒の一言だったとしても同じ感情を抱くような気すらする。
「空想小説に出てくるような?」
 彼女は、はじめてプログラムにない言葉を発した。
 貴臣は、頷く。
「そうそう、それそれ。怖い?」
 尋ねると、少女は少しだけ目を細めたように思った。
「いいえ」
「ほんとう?」
 聞き返せば、少女はすこしの空白のあとに、こう続けた。
「本当。あなたが、人間以外の何かだとしても、わたしの方が、きっとあなたよりも酷いばけものだと思う。から。だから、わたしは、ここに居るし、そして、この部屋には誰も入ってはいけないの」
「それ、つまんなくない?」
 そう尋ねると、少女はゆるやかに瞬きをした。そして、何かを答えようとして口を開いた。首が僅かに動いて、髪が付随する。縷々。
 何かが少女の口元で煌めいた。
 少女は口を閉じて、数秒間何かを思案し、目を瞑る。それから、やはり練習したような動きで、向こうを向いてしまった。
「……お帰りください。本当は、お話も、してはいけないの」
「従いたくないなぁ」
 貴臣は、どうして自分は無理矢理この畳の部屋に入ることができないのだろうと思った。さっきからの貴臣と言えば、もう今すぐにでも少女の側に寄ってその姿に触れたいような気持ちで一杯だと言うのに、一歩も踏み出すことができないのだった。見えない手が後ろから貴臣を押さえつけているような拘束感があった。
 焦燥する。
 普段ならとうに苛立ちに変わっているはずのその感情は、少女に関しているせいだろうか、不思議と清廉なままに留まっていた。
「ねえ、名前は? 何て呼んだらいいの」
「お帰りください」
「え? やだよ。教えてよ」
「お帰りください」
「今更じゃない? 教えてってば」
「……帰って」
「うっわぁもうここまでくると何が起こっても帰らないよ俺。教えて?」
「……、帰ってください」
「教えてくれるまでは帰らなぁい」
 少女の後ろ姿は微動だにしなかった。
 けど、なんだか。
 貴臣は首を傾げた。
 困ってるっぽい?
「帰って」
 そのとき、はじめて少女の声色に困窮が滲んだ。
 ぞくっと背筋が震えた。
「……おねがい」
 小さく付け足されたその言葉で、崩れ落ちそうになった。
 ああ。御津藏貴臣は、今まで何をして生きていたんだろうか?
 この人間に出会うための努力を何もせず、怠惰に死ぬことだけを望んで。
 時間の使い道として、貴臣はこの人間を虐めること以外に何の意義も感じられなくなっていた。
「……教えてくれるまで、帰らない」
 過去の自分が救済されたような奈落に突き落とされたようなどっちつかずの最高な気分でそう答えると、少女は、諦めたように、少しだけこちらを振り返った。
 この角度だと睫毛の長さがよくわかる。
 もう何でもいいから触りたい。
「…………、奏済、諌名」
「いさな? 諌名ちゃん?」
「そう。教えたわ」
「うん、ありがとう、幸せ」
「…………? 帰ってくれるのでしょう?」
「え? 教えてくれるまでは帰らないと言ったけど、教えてくれたら帰るとは一言も言ってないよね?」
 少女は思わずといった風にこちらを振り返った。畳に手を突いて、肩に掛かっていた着物がずり落ちている。
 ただでさえ大きな瞳がもっと大きく見えた。
 習い性なのだろうか、やはり表情は変わっていないのだけれど、信じられないと思っていることは容易に想像がついた。
「今、何て……」
「ねえ、そっちに行ってもいい? 俺、もっと諌名ちゃんとお話がしたいなぁ。どうして自分のことばけものだと思ってるの?」
「帰って……」
「お話してくれたら帰るよ?」
 そう言うと、少女は唇を噛んだ。
 ぞく、と背筋が震えた。
 ああ、これ、楽しい。
 少女は、暫く俯いていたが、その後、小さく、呟いた。
「では、すこし……だけ」
 その瞬間、何かの呪縛が解けた気がして。
 貴臣は、畳の上にそっと踏み出した。



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