それは、いつもよりもしとやかな朝に思えた。
奏済諌名は、身動きした自分の衣擦れの音で目を覚ました。或いは、逆だったかもしれない。目を覚ましたから体が動いたのか。そのような、どちらでも構わないことを考え、時間を費うことが諌名にはままあった。
それが許されるような環境に居た。
諌名は、いつもそうしているように、ゆっくりと息を吸い、そして、止めた。
――数秒、あるいは、数分の間、そうしていたけれど。
今日も諌名の息は止まらず、そのまま死ねずに、息を吐いた。
起きあがり、さらさらと、縷々とした黒髪を纏め、体の前へと持ってくる。結ぶための紐が無かったので、ここ数年の諌名は、朝目が覚めてからまったく同じ動作で長い髪をやり過ごしている。髪を纏めるために持ち上げた腕から、寝間着にしていた小袖の袖が滑った。
ただ重みに任せていた首筋を伸ばすために、顎を上げるようにして、嵌め殺しの窓枠に目を遣る。あわく、白と碧がきれいに混ざった美しい朝の空が借りられているのを見て、目を細めた。何よりもうつくしい絵画だと思った。諌名は空が好きだった。何で粉飾することもない、ただの空が好きだった。
諌名が読む文学作品には空に何かを投影するものも多かったが、諌名自身はそこに何を映すこともなく、ただ眺めることしかできない。投影するほどの心地が無いのだ。
これまで生きた十四年の殆どを、諌名は部屋の中で過ごしている。
けれど、それだからこそ、こうして、無我に空を眺めることができるのだろうと思う。それすらも、読んだ空想小説の受け売りであったが。
つまるところ、諌名はこの環境に安心しているのだ。
誰を傷つけることもなくただ余命を費やしていられるのならば、それが一番いいに決まっている。自身のはた迷惑な体質をこのまま殺していられたら、というのは、諌名が唯一つ執心することからであった。
四月になった。この座敷牢の外には、そろそろ、春が――来るらしい。
冷たい空気が好きだった。
以前、まだ諌名が生家で暮らしていた頃に読んだ本に、「人肌は暖かい」という記述があったのを、覚えている。
だとすれば。
諌名は、青い血管が透けて見える手を持ち上げて、窓の光に翳した。
諌名は、春が嫌いかもしれない。
そして、きっと、人の肌も嫌いだ。
暖気というのは――陽気というのは。まるで当然のように諌名の体を蝕んで、要らないときまで温めて、ただでさえひどく曖昧な諌名の体の輪郭を、ぼかしてしまうような気がした。
冷たいままで構わなかった。
せめて、この部屋の中だけでも。
目を瞑り、叶わぬと知る祈りを朝日に捧げる。
どうか、時の流れぬままに。冷たい空気の中に閉じこめて欲しい。誰も近づけぬように。
どうか。
諌名が衣を着替え、身支度を整えた頃に、部屋の襖を開いた。自分の世話役の少女が頭を垂れている姿を見て、諌名は微動だにせぬように気をつけながら、ゆっくりと瞬いた。彼女は、規範どおりに、けして部屋には入ろうとせず、ただ伏した視線だけをこちらへ寄越す。
おはようございます、と投げかけられた言葉は、諌名に返事を求めてはいない。それをわかりきっている諌名は、少女に焦点を合わせるだけに留めた。
「本日はお客様がお見えになるので、在宮さまにおかれましては、けしてこのお部屋から出ることのないようにと、当主よりの伝言でございます」
粛々と告げられた言葉に、諌名はわずかに視線を揺らした。
この苑宮の社に、他者が訪れることは、諌名が身を寄せているこの四年間で一度も無かったことだった。
そうであるからこそ、諌名は安らいでいられると言うのに。
「よろしいですか、在宮さま」
確認するような声と共に睨み据えられ、考えに耽っていた諌名は我に返り、頷いた。
この部屋から出ようなどと思ったことは一度もない。今日もきっとそうだろう。
諌名のその様子を見て少女はひとつ頷くと、襖を閉めて立ち去った。
そして、諌名は、出ようと思ったところでここから出ることなどできないのだ。
視界の全てを塞ぐ重厚な木の格子越しに、世話役の去った襖を眺めて、諌名はゆっくりと、今日が暦の上で一体何日だったのかを思い出す作業をはじめた。
© 2008- 和蔵蓮子