臣の書斎は、寝室から続く扉の向こうにあった。扉を開くと、真っ暗だったその部屋に寝室の光が差し込んだ。左右の壁には書棚が並び、空白もなくぎっしりと本が詰められている。部屋を見回して、その蔵書量に感動していた諌名は、ふと部屋の右奥に目を留めた。どうやら奥にはもう一つ部屋が続いているらしい。書棚に隠れるようにして、右の隅にひっそりと扉があった。
臣は部屋にぱちりと電気をつけた。部屋の四隅に生えているランプに、橙色の古ぼけた灯りが灯る。夜に包まれたようで、居心地が良かった。
「すこし暗いけど、俺、これくらいの方が落ち着くんだよね」
言いながら、臣は部屋の扉を閉めて、また鍵を掛けた。先ほどから、臣は扉を閉めるごとに鍵を掛けている。ずっと和風の家に住んでいた諌名は、その行動が目新しくて、鍵の掛かる音が耳に新しくて、ついつい注意を向けてしまうのだった。
「諌名ちゃん、怖い?」
聞かれて、諌名は首を振った。
「いいえ」
暗さのことなら、怖いとは思わなかった。仄暗い室内は、臣の姿に馴染んで見える。そう、臣には、これくらいが似合うと思う。あまり、明るいところは似合わないのだ。
再び本棚を見回して、諌名は小さくためいきを吐いた。すごい、と思った。臣くんはこれを全て読んでいるのかしら。だとしたら、彼は相当な読書家である。諌名は本を読むことが好きだった。部屋から出ることのできない諌名にとって、唯一許された外界との接触だったから。
扉の正面に置かれた、上等な広い机に鞄を置いて、臣は二つあるうちの一つの椅子を掌で指した。ここに座ってという意味だと受け取って、諌名はドレスのスカートを払って、そっと腰掛けた。筆箱や問題集やクリアファイルなどを取り出して並べてゆく臣を見て、諌名は学校について思いを馳せた。
諌名はこれまで学校というものに通ったことはない。そのようなことが許される環境にいなかったのだ。同じ年の人間が、机を並べて勉強をするところ。そもそも、諌名は同い年の人間と話をしたことがこれまで一度もなかった。話をしないのは、同い年に限った話ではないけれど。昨日、口を開いて、声を出すこと、会話をしたこと自体、酷く久しぶりだったのだ。
腕を持ち上げて、厚い木の机の上に指をすべらせる。木目は目に見えているのに、それはつるりとしたもので、そう、きっと、これなら書き物の邪魔にはならないだろうと思った。
諌名は、つと顔を上へ向けた。臣と目が合う。いつの間にか、鞄は床へ下ろされていた。
「あー……どうしようかな」
臣はそう言って頭を捻った。
「何が?」
「いや、お勉強してる最中、諌名ちゃんに触れないなと思って」
「……それは、義務なの?」
「義務づけたい」
言いつつ、臣は視線を机に向けた。義務化は諦めたらしい、と、思った瞬間、臣の左の指先が諌名の手首に伸びた。する、と手を回す。
「なんか、こうしてないと、落ち着かないんだよなぁ」
なんでだろ、と言いながら、臣はシャープペンシルの芯を出した。かち、かち。
それは、わたしが聞きたいことだわ。
諌名は、目を伏せる。机の上を見つめた。器用に片手だけでプリントにさらさらと名前を書き入れてゆく。綺麗な字だった。
御、津、藏。ああ、蔵ではなく、藏なのね、と思った。
貴、臣。
――――、?
「…………おみくん」
「何?」
「あなたの、名前を、聞いてもいいかしら」
「えぇ? 何、今更」
「おしえて」
「御津藏貴臣だけど」
みつくらたかおみ。そう言われて、諌名はしばし黙り込んでしまった。
「……たかおみ」
「うん。え、なぁに、諌名ちゃん、そんな改めて呼ばれると、臣くん照れちゃうんだけどぉ……」
諌名は左手で口元を覆った。
「あれ、諌名ちゃん、顔、赤い?」
「……どうして、もっと、」
「え?」
「どうして最初に名前を教えてくれないの」
「え? 何、何が?」
諌名は、言葉が胸につっかえた。ああ、これは、とても、恥ずかしい。
「わたし、わたし、ずっと、――ずっと、あなたの名前を、御津藏臣だと、思って、」
「ああ、そうみたいだったね」
平然とそう言われて、諌名はいよいよ言葉を失った。臣に掴まれていた右手を持ち上げて、頬に当てる。顔を見ていられなかった。臣と反対側を向く。
「どうして教えてくれなかったの?」
消え入りそうな声で尋ねると、臣はえぇー、と甘えた声を出した。
「だってぇ、諌名ちゃんが臣くんって言うのが、すっごくかわいかったからぁ」
「ばか」
「こっち向いて」
「嫌」
「諌名、こっちを向いて」
諌名は、深く、ためいきをついた。そして、小さく、はいと答える。
くちびるを噛んで、臣を――貴臣を振り返ると、彼は笑いを堪えているようだった。
「諌名ちゃん、俺の名前呼んでみてよ」
「……いや」
臣の左手が、諌名の頬に滑る。
「一回だけ」
目を覗き込まれたので、諌名は目を伏せた。精一杯の反抗だった。
「……貴臣」
「ああ、こっちでも、思ったよりいいかな。もう一回」
「一回って言ったわ」
「だって今のはこっち向いてなかったじゃん」
呼んでくれなきゃ宿題できなぁい。その声がまるで本気のようだったので、諌名は、諌名は、
「諌名、俺の名前を呼んで」
「…………、」
諌名は、視線を上げた。ああ、やっぱり。視線を交わして、そう、こうして、ひとたび貴臣と瞳が合えば、もう囚われたように、外せなくなる。
昨日から、何度――こうして、囚われたことだろうか。幾重にも、薄く、重い枷のような衣を纏っていくように、諌名は貴臣に囚われていくような気がした。
「諌名」
囁かれて、諌名は全てがどうでもよくなるような気がして、けれど、すこしだけ反抗がしたかったから、拗ねたような声色で、呟いた。
「――貴臣」
© 2008- 和蔵蓮子