重厚な彼の自室に戻って、臣はまるで慣れているように諌名のことを抱き寄せた。反射ですこし跳ねた体も、特にいつもと変わらない様子の臣のおかげで解れてしまう。
そう、いい加減自覚してしまったが、諌名は臣にこういう風に抱き締められることがどうやら嫌いでないらしかった。人と接触することは総じて諌名の感情を波立たせるものだと思っていたが、どうやら臣に限っては違うらしい。むしろ、その反対であるように思える。そう、まるで、最初から決まっていたみたいにぴたりとからだをよせること、それが心地よいような気までするのだった。
諌名は目を伏せた。どうかしている。臣の肩越し、閉じられて鍵まで閉められた重い木の扉を見つめて、諌名は思う。こんなのはやはりおかしいのだ。諌名のようなものが、こんな、まるでしあわせのような。だってわたしはひとごろしなのにこの血は汚れて汚れているのに、自分の制御もまともにできない出来損ないで、そのうえ肉親すら惑わすような顔を持っている、
諌名は、強張った視線を床に落とした。臣の腕が背中に回る。
「……どうかしたの」
呟くと、臣は言葉を探すようにんーと唸って首を傾げた。諌名の頭に凭れるように、まるでじゃれつくようにして。
「いや、別に理由はないかな。なんとなく」
「……気が済んだなら、離して」
どこから出ているのかわからないような無機質な声だと思った。臣が諌名を差して人形のようだと言うのは、この声のせいもあるのだろうと思う。きっと彼は全体的にまんべんなく諌名に関してすこしずれた認識をしているのだ。だって、こんなに頭の中では考えているのに。
「えー何それマジで? そんなこと言ったらさあ、一生気が済まなーいとか言ってこのままずーーーーーっと諌名ちゃんのこと抱き締めたままでいちゃおうかなーみたいな」
「離して」
「冷たい、そんなこと言われたら臣くん泣いちゃうよ、いいの諌名ちゃん、泣いちゃうよー、諌名ちゃんの愛しい俺が泣いちゃうよー」
別に愛しくない。
そう思って、諌名はすこし抵抗するような雰囲気でもって体を僅かに離した。臣は諌名が体を離すことを拒まなかった。それは本当に僅かな隙間だったのだけれど、間に空気が入り込むのと同じようにして何かが乖離してしまったような気がした。
それに思いのほか衝撃を受けている自分に気づいて、諌名は反射的に口を開いた。
「……学校の」
諌名は何かを、その何かを、取り繕おうとして、苦手な言葉を紡ぐ。
「宿題を、するんでしょう」
確かめるように、呟いた。
さっきの行動は拒絶なんかじゃないのだと言い訳するように。だって臣には宿題がある、だから諌名は離れなくてはいけない、別に愛しくはないけれど諌名は臣が嫌いじゃない、けれどずっと一緒にいられない。そのひとつひとつを確かめるように頭の中でなぞる。
でも、
あなたがそうしたいなら離さなくてもわたしは別に、いい。
――そう言おうとしたその瞬間に、臣はあっさりと諌名から離れた。
「あ、そうだった。今回課題多いんだよ超困る」
ああ、
諌名は一歩足を引いた。臣が自分に似合うと用意してくれた黒いくつのそのヒールが、木の床に音を響かせる。
わたしは、何を、言おうとしたのかしら。
頬に手を当てる。冷たかった。頬が冷たいのか掌が冷たいのかもわからない。きっと全部が冷えている。頭も胸の中心も冷えている。
馬鹿みたいだわ、馬鹿みたいだわ、馬鹿みたいだわ、馬鹿みたいだわ。
本当に馬鹿みたいに頭の中でそればかりを繰り返した。
勘違いしているのはやはりわたしのほうなのだ。
「諌名ちゃん?」
不思議そうな臣の声が聞こえて、けれど諌名は硬直したように臣の足下の床をみつめるばかりだった。
厭な、厭な、厭な、予感が、した、して、
ああ、わたし、いけないわ、
なにも考えたくないの、考え、られないの、
ぱりん。
硬質で綺麗で微かな破砕音が、部屋に響いた。
目を見開く。
「――――あ、」
ふらりとめまいがした。当然のように肩を支えられて、諌名は臣の顔を見上げる。
「なんか割れたね」
「――ごめんなさい」
「謝らなくていいよ、諌名ちゃん。これくらい」
臣は優しげに笑った。
違うわ。
首を横に振ると、臣はその優しい笑いのまま首を傾けた。臣の白い髪が重力に従って角度を変える。
「怒ってるみたいに見える?」
「いいえ」
「じゃあなんで?」
あなたがわたしから離れてしまったことをすこし寂しく思ったからです。
その浅ましさを厭うているのです。
死んでしまいたい、と思った。
死んでしまいたい。死んでしまいたい。あなたにこんな馬鹿な考えを気づかれる前に死んでしまいたい。諌名は再び泣いてしまいそうになった。いっそ殺してほしい。
「――わたし、」
「わかってるわかってる、諌名ちゃんは臣くんと離れるのがちょっと寂しかっただけだよねー、あれ、何、びっくりしてんの? 怒ってる? あれ、えっ、泣かないよね諌名ちゃん、ごめん冗談だって、許して」
言葉に詰まって、諌名はゆるゆると首を振った。違う、と思った。諌名は、臣が思っているようなきれいなお人形ではないのだ。
「臣くん」
「なぁに」
「……臣くん」
「なぁに、諌名ちゃん」
重く顔の横を覆って肩におりる髪を払って、臣は諌名の目元に口づけた。その柔らかい感触に安心してしまって、諌名は目を伏せる。諌名ちゃん、と呼ばれた。はいと返事をする。
「お勉強がしたいから、書斎に行こうと思うんだけど、だいじょうぶ?」
ええ、と答える。
ああ、明確に。
明確に、自分は、絆されているのだ。現在進行形で、このひとへ溺れていって居るのだ。鞄どこに投げたっけ、と再び諌名から離れ、しかし間を空けずに諌名の手首を握った臣の背中を見ながら、諌名は深くそう思った。
© 2008- 乙瀬蓮