「遠慮してるってわけじゃないよね?」
臣がそう諌名に尋ねたのは、用意された食事の内諌名は半分くらいにしか手を付けなかったからだろうと思う。昨日の晩にも思ったのだけれど、ここで出される食事は諌名には多すぎるのだった。
自分はあまり食べないのだと御堂島に伝えなくては、と思っていたのを忘れていたため、今日も昨日と同じ量だった。
申し訳ないことをしてしまったわ、と思いながら、目を伏せる。
「違うわ」
答えると、諌名の正面に座ってストローをくわえていた臣は、ふうんと返事した。臣が手に持つガラスのコップはとても綺麗な細工が成されていた。そそがれているのはトマトジュース、それにいくつか氷が落とし込まれている。諌名は目を細めた。きっとあれは冷たいのだろうと思った。冷たいものは好きだった。けれど、諌名が触っているといつかそれは温く変温してしまい、諌名の求める冷たさはかならずいつか失われてしまうのだった。
諌名は、臣の方へ視線を戻した。
彼の前に用意されていたのは全く手の付けられていない少量の果物とスープだけ。唯一手にしたものはトマトジュースである。
「諌名ちゃん、全然食べてないよね? 昨日もそうだけど」
「あなたの方が、食べていないと思うわ」
「俺はいいんだよ、人間じゃないから」
そう言う時の臣の笑顔にどこかいつもと違う気配を感じて、諌名は首を傾けた。
「おなかはすかないの?」
小さく尋ねると、臣は先ほどの気配を引っ込めて、嬉しそうにによによと笑った。
「あぁ、それ聞く? そうだなあ昨日生まれて初めて思ったかなぁ、やっばい超この女の血ィ飲みてええー、みたいな?」
「臣、ちょっと口が悪くない?」
壁際で空気のように立っていた御堂島が、苦笑しながら言葉を挟んだ。臣の表情の温度が変わる。
「はいはぁい、ごめんなさーい。あとごちそうさまでした、俺は昼飯要らねェや、あと諌名ちゃん多分小食? っぽいからご飯の量減らしてあげて」
「了解しました」
御堂島の返事を聞いて、臣はにこっと笑った。そしてがたんと立ち上がる。
「諌名ちゃん、ごちそうさま?」
「……ええ、あの……ごちそうさまでした」
「じゃあ、お部屋戻ろうか。俺、課題があるし」
席を立つと、待っていた臣に手首を掴まれた。臣は笑ったままで、御堂島を見て、しばらく部屋に来ないでと言った。御堂島は、もう一度、了解と答えた。
臣の部屋へ戻るまでの長い廊下、窓の外はずっと眺めていたくなる程うつくしく、静かな雨が降っていたけれど、諌名には落ち着いてそれを観賞する余裕がなかった。
臣の機嫌が悪かったからである。
すこし窮屈なくらいだわ、と手首を見つめながら思う。臣はいつも不用意に触れてくるようでいてその手つきはいつも優しかったのだけれど、今日はずっと強く握られている。歩調もいつもより速いと感じた。
「臣くん」
「あ?」
返答の声もなんだか荒かった。
諌名は一瞬躊躇って、それから口を開いた。
「何に怒っているの?」
尋ねると、臣はぴたりと歩を止めた。振り返ったその顔が笑っていなかったので、諌名はすこしだけ安心した。
「嫌いなの」
答える声が、まるで内緒話をするかのようにひそかだったから、諌名は首を傾げた。
「何が?」
「なんかさあ、思わない? 俺、人間じゃないし、この家の、御津藏家の当主なのにさあ、あんな風に、まるで人間みたいに制限されるの、すっごく癇に障るんだよね。くだらない理由だけど、そのくだらなさが、更に厭。なんで俺が、この俺がさあ、あんなに、人間みたいに」
手首への圧迫が増した。
「出来損ないでも、俺は吸血鬼なのに」
臣はまるで泣いてしまいそうに見えたので。それを指して魔が差した、と言うのかもしれない。腰のあたりで所在なさげに漂っていた左手をゆっくりと持ち上げて、そして、そのまま下ろした。
「……あなたは、人間が嫌いなの?」
代わりに、呟く。
「人間のことはどうでもいいよ。俺と一緒にしないで欲しいだけ」
答えを聞いて、勝手に安らぐ。嫌いと言われなくてよかった、と思った瞬間、臣はによりと笑った。
「あれ、あれあれあれ諌名ちゃん、もしかして、あー、うふふ、あのね諌名ちゃん、もし人間が嫌いになっても、諌名ちゃんのことだけはずっとすきだよ」
諌名は一瞬息が詰まって、そしてそれを誤魔化すようにためいきをついた。
誰に誤魔化しているか、誰を誤魔化そうとしているか、それを考えないようにして。
「そう」
「あ、信じてない」
「信じてないわけじゃないわ」
「そう? そうかなあ? ふーん、まあいいや。時間はたっぷりあるし」
信じていないのはあなたの方じゃない、と諌名は思った。思った、だけ。口には出さずに、ただ握られたままの手首を見つめた。いつのまにか緩んでしまった臣の手の拘束を思い出した。
「悪いとは思わなかったの」
「え?」
歩き始めていた臣がこちらを向いたので、諌名は首を振った。
「なんでもないわ」
© 2008- 乙瀬蓮