ぱん、と手を打つ音がして、眠っていた諌名は驚いて肩を跳ねさせた。反射で起きあがろうとして、自分を抱き締めたままの腕に阻まれる。朝からずっとそのままでいたことを思い出した。あのあと、臣が泣きやむまでしばらくそのままでいたのだけれど、彼は諌名が離れようとするとそれを当然のように止め、そしてまだ眠いからと諌名を腕の中にとじこめて、再び眠りについてしまったのだった。
「いい加減起きましょうね、二人とも。よく眠れたかな?」
御堂島の声が上から降ってくるので、諌名も視線だけそちらへ向けた。部屋がいつの間にか明るくなっていたので、きっとあのカーテンを開けたのだろうと思った。雨は止んだだろうか。
「随分仲良くなったみたいだね?」
笑い混じりにそう言われて、諌名は内心で戸惑った。
「いやー、仲が良いのはとてもいいことだと思うよ。あ、ところで今って何時だと思う? わかんないよねー、寝てたもんね。午前十一時です。遅いよね? まあ日曜日だし起こさなくてもいいかなーと思ってたんだけど、あんまり起きてこないから心中でもしてるんじゃないかと思ってさーあ?」
御堂島の言葉の量が処理しきれず、諌名は黙り込んだ。
同じくらい喋る臣の言葉は聞き取れるのに、どうしてだろうと思った。なんとなくだけれど、御堂島の声は聞こえていても聞こえていなくてもいいと思っているような雰囲気があるからかもしれないと思った。
臣よりも、諌名に優しくないのだろう。
自分の思考回路に、諌名は仄かに不安を覚えた。毒されている。このひとを基準にしてはいけないのに。
わかっているのに。
体に感じる臣の腕の拘束感は拭えない。
そんな諌名を見て、御堂島はくすりと笑った。
「まあ、してなくて良かったよ。ご飯の準備をしておくから、臣くん起こして食堂に来てくれる? 諌名ちゃん」
「……はい」
「はい。じゃあまた後で」
御堂島は軽く手を振って、部屋を出て行った。
ためいきを吐いて、諌名は言われたとおりに彼を起こすことにした。すっと見上げて、思ったよりも近くにあったその表情の純粋なこと、睫毛の透明なことを確認してしまって、諌名はふしぎと罪悪感に似た感情を覚えた。御堂島と話している間中、ずっと臣の腕の中に居たことにも思い至る。「随分仲良くなったみたいだね」という言葉を思い出して、今更言い訳をしたいような気分だった。
違う、と思った。
何が違うのかはわからない。
けれど、
「……臣くん」
呼ぶと、臣はすこし間を置いてから、眉を顰めた。
――違うわ。
「臣くん」
「…………、なに」
消え入りそうな返事があった。
「お昼ごはんを、御堂島さんが用意しておくと言っていたのだけれど、起きられる?」
「起きたくない」
目を開けないまま、唸るように臣は言った。諌名の体を抱く力が少しだけ強まった。ああ、そんなに不機嫌そうな顔をして。あなた、黙っていれば綺麗なのよ。知っているかしら。
「んんんー、あ゛あー、いま、なんじ?」
「十一時」
「うー」
臣は唸りながら諌名の体を引き寄せた。諌名の鼓動がゆるやかに早まる。
「……起きられないなら、御堂島さんに伝えてくるけど」
「ああ、いい、起きるよ。起きるからどっかいかないで」
「……、どういうこと?」
「側にいて」
臣は眠そうに目を開いて、そして嬉しそうにとろんと微笑んだ。そのまま、諌名の額に口づける。
「今度は寂しくなかったよ。諌名ちゃん、おはよぉ」
「……臣くん、あなた」
途端、にわかに腰に回された腕に力が入って、諌名は反射で肩を竦めた。
昨日の記憶が蘇る。そうか、と気づいた。
挨拶を、されたから。お返事しなくちゃ。
ぞく、と、胸がざわめいた。
ああ、どうして。
いけないわ。
顔は――見ていられなかった。視線を落として、臣の胸元を見つめながら、かろうじて呟く。
「……おはようございます、臣くん」
あは、と臣は笑った。
「えらぁい、言われなくてもちゃんとわかったね諌名ちゃん」
いいこ、と呟いて、臣は愉快そうに笑った。
それは本当に楽しそうで嬉しそうだったけれど――そして、諌名も、臣のその態度が少しだけ気に入っていたけれど、優しくされるのがすきだったけれど。それと同じくらいには、不安に思えてしまうのだった。昨日から、繰り返し、繰り返し思っていることではあったけれど、臣は、諌名を大切にしすぎているから。
諌名に対して心を割いて、諌名に向けて心をかけて、臣に返るものなどひとつもないのに、どうしてこれほど諌名を大切にするのだろう。してしまうのだろう。
諌名のなかに、かけがえのないものなんてひとつもない。いつ死んでも構わないと考えていたから、大切なものなどひとつも持っていないのだ。それは自衛に似た意識。失ったときに後悔しないために諌名はなにも持たなかったし、これからも何もいらないのだと思っていたかった。
思っていたかった、と考えてしまうのは、それがかなわなくなりつつある自分に気づいているからだ。臣とこういう風にしているのが嫌いではなかったからだ。
結局のところ、諌名は臣のことが心配なのだった。自分が、臣に何かを求めてしまうことが怖かった。まるでそれを許すような優しさを諌名に見せないでいてほしかった。
ちいさく尋ねる。
「……あなた、大丈夫?」
「何が?」
臣は首を傾げた。
眠そうに目を瞬かせて、甘く優しい表情で。
諌名は黙って俯いた。
わからないのかしら。
「いつまでも、一緒にはいられないでしょう」
諌名が言った、それを聞き、臣は首を傾げた。
「どうして?」
「わたしは人間だから、いつか死ぬのよ。それに、こうしているの、あまり普通ではないと思う」
「諌名ちゃんに普通がわかるの?」
聞き返されて、諌名は黙り込んでしまった。笑い混じりに、臣は続ける。
「諌名ちゃんさ、ずっとおうちの中に居たんでしょ? どうして諌名ちゃんに普通がわかるの? これが普通かもしれないじゃん」
「……わたしが、あなたと一緒に眠ったりすることが、普通?」
「普通普通、全然問題ないよ、大丈夫」
「……嘘でしょう? それくらいわかるわ」
「ああ、これくらいならわかっちゃう? じゃあわかった上で異常なことしようよ諌名ちゃん」
臣は僅かに身を起こして、諌名の首筋に顔を埋めた。びくんと跳ねた自分の肩に、臣の唇が触れたのがわかった。すこし、乾燥していた。
「だいたいさぁ、昨日は何も言わなかったくせに、どうしていきなりそんなこと言うの?」
諌名の肩口に唇を当てたままそんなことを言うので、諌名は、緊張しながら答えた。
「昨日までは、」
「昨日までは?」
れろ、と臣は諌名の首筋を舐めた。くちびるを噛んで、声を堪える。
「昨日までは、何も、考えていなかったから」
「今日になったら考え始めたの?」
「ええ」
「それ、どうして?」
「外に……出たから」
「そっか。何考えてたの?」
「あなたのこと」
「………………、え?」
諌名は、呟いた。
「あのね、わたしのことを、大切にしすぎだと思うの。もう少し、もっと、酷くしたほうがいいと思う」
臣は体を起こして諌名と視線を合わせた。
「え、何、それは、マゾ願望?」
「え?」
「諌名ちゃんは、虐められるのが大好きな被虐趣味者ですか?」
「……? ごめんなさい、何の話をしているの?」
「うわ、楽しい……俺、そういう話大好きなんだけど、諌名ちゃん虐められるの好きなの?」
「そうじゃなくて、あなたがわたしに興味無くなったときに、困るから」
「興味無くならないから困らないけど。それより諌名ちゃんを虐めることに関してもっと深くお話したいなあ俺」
「話を聞いて」
「試しに一発殴っていい? 好きかどうかわかるでしょ」
「わたしのこと殴りたいの?」
「え? そりゃ殴りたいけど、諌名ちゃんは死ぬほどかわいいからなんか殴りたくないみたいなそういう感じ、わかる?」
「わからないわ」
「殴って嫌われるなら絶対殴らないけど、諌名ちゃんはマゾヒストだから虐められるの好きなんだよね? 怒らないよね? ねえなぐっていい? ちゃんと平手打ちにするからあ、ねえー」
諌名は臣の言葉を無視して起きあがった。当然のように手を貸してくれた臣に小さくありがとうと呟く。
「ごはんの時間だわ」
「えー俺別に食べなくてもいいから諌名ちゃんと一緒にいたい」
「うるさい」
面倒になって一言で済ませると、臣は嬉しそうにうふふと笑った。
「諌名ちゃん、俺に嫌われるの、諦めてね」
「……あきらめないわ」
「えー、無理だよぉ」
本当に? と聞きたくなってしまって、諌名はくちびるを噛んだ。
聞いたら、きっと、彼は本当と言うと思うから。
そしたらきっと、諌名は信じてしまうから。
先にベッドを降りていた臣が差し伸べた手にその白いてのひらにそっとあえかな手を乗せて、ああ、もう戻れないのだわ、と諌名は思った。
もう何度目かもわからないけれど、そう、思った。
しあわせだわ、と、しずかに、思った。
© 2008- 乙瀬蓮