諌名を寝かしつけて、貴臣は名残惜しくベッドを離れた。諌名の寝顔は起きている時にも増して神秘的な完璧性を保っているように思えた。
自分のこの無条件な諌名への執着は信仰に似ているかもしれないと思った。諌名を神とするならば、偶像崇拝は禁じようと思った。そして信徒も貴臣ひとりでいい。さぞ敬虔な狂信者になれると思った。神と会話ができるのは自分だけなのだから。
くすくすとその思いつきに自分で笑う。
吸血鬼が、神の事を考えるだなんて。ああ、冒涜的で面白い。
左手で、右の掌をゆっくりとなぞる。諌名の目を覆った手だった。
は、と熱い息を吐く。
そう、あとで写真を撮ろうと考えた。あの神々しさを写真に収めることはできないだろうけれど、留めておきたいと思ったのだ。全てを。
そんなことを思いながら居間の扉を開けると、そこには御津藏家の腹心が勢揃いしていた。諌名がいればおののいて引っ込んでしまうような重々しい空気である。そういう雰囲気が嫌いなので、貴臣はため息をついた。
御堂島、孝枝、サチカの三人がソファの横で直立不動で貴臣を待っていた。
「何立ってんの? 座れば」
言いつつ自分でソファに腰掛けると、御堂島とサチカはやっぱりねなどと言いながらソファの一人席に座った。大方、二人とも孝枝に叱られて立っていたのだろうと思う。本当に堅苦しい女である。
その孝枝は、直立不動のままで貴臣を見据えていた。その髪は数年前に御堂島の魔術実験のせいで明るい茶髪に染まってしまっているのだが、以前黒髪だった頃より映えて見えていた。髪について触れるとものすごい勢いで睨まれるので、言ったことは一度も無いけれど。
「……なンですかー?」
用意されていたアイスティを啜りながら尋ねると、孝枝は緊張の面持ちのままで「お嬢様は、今」と尋ねた。
お嬢様、というのが諌名の呼び名となったのだろうか。それを頭に入れて、貴臣は答える。
「もう寝ちゃったよ? 健やかにかわいらしく」
孝枝は一瞬目を見開いて、そうですかと言った。
「……当主、それで、吸血はなさいましたか」
頭から血がすうっと降りていく感覚があった。
その質問で台無しだ、諌名があんなに完璧だったのに。
きろり、孝枝を、見る。
「俺が、吸血するかどうかだなんて、お前に言われて決めることじゃないよね? 違う?」
「相違ございませんが、当主はお目覚めになってから七年以上も吸血をなさっておりません。それは吸血鬼として異常なのです、一刻も早く」
「んなことは知ってるっつーの。次」
「当主!」
「孝枝、いい加減にしとけば」
御堂島の仲裁を聞きつつ、貴臣は大きく息を吐きながらソファの背もたれに体重を預けた。あーあ、この場に諌名が居たらこのストレスも解消されるのに。諌名に触れていると体が楽になるような気がするのだった。気がするのか、本当に楽になっているのか。貴臣は、後者ではないかと思うのだけれど。
と言うのも、諌名が普段は自分で抑えることができていると思いこんでいるその魔力だが、どうやら体内で完全に抑制されているわけではない。一日観察してみると、彼女の肌、髪、ひとみまでが魔力で満ち満ちているようだった。彼女の体を彼女たらしめている輪郭線にまで魔力が満ちている。及んでいるのだ。
魔力を動力にしている者ならば、体表面の接触をするだけで回復するだろうと思う。
彼女はまさに、魔素が服を着て歩いているようなものだったから。
「それで、貴臣」
「あ?」
考えに耽っていた貴臣は、御堂島の声で顔を上げた。
「とりあえず、必要な連絡ね。諌名ちゃんの実家、奏済家に連絡を入れたところ、説明よこせとのことだったので、会談を申し込まれました。明日の夜、受けるよね?」
「受ける。場所の手配はしといて、諌名は別の部屋で待機、直接人に会わせないように」
「はぁい。その他?」
御堂島が孝枝に視線を振るが、孝枝は俯いたまま首を横に振るだけだった。彼女はずっと黙っている。
「じゃあ、はい。サチカより、苑宮の現状につきまして」
能面からもたらされた情報は、この短期間で集めたにしてはとても充実しているように思えた。
苑宮では、魔力を霊力と呼び慣わし、神聖な力だと考えていること。故に、旧在宮のように、魔力を魔力と呼ぶ家系を邪悪なものだと捉えていたこと。今回の当主の訪問許可には、逆に苑宮の霊力で当主を浄化してさしあげようという考えがあったということ。
「誇り高い一族であると見受けられます」
「ふーん?」
「ですから、当主が在宮を選んだということに苑宮の内で不満が燻っているようですね。近々、文句の差し入れが来るかと」
「突き返してくれる? それは要らねーや」
「あまり邪険にするのもどうかと思いますが……」
「俺、苑宮嫌いなんだよね、なんとなく」
「当主、そういうこと口に出しちゃだめ」
唐突に御堂島に口を挟まれた。そちらを振り返って、首を傾げる。
「なんでェ?」
「だめ」
御堂島を見上げると、彼は口に人差し指を当てていた。
それが様になっていたので、貴臣はふいっと視線を逸らした。動作が決まっていてむかついたのだ。今度、諌名の前でまねをしてみようかなと思った。
「……ふぅん」
「それにしても、どうして霊力や魔力という呼び分けがあるのですか? 何か違いがあるものなんでしょうか」
サチカは自分で作ってきた資料を見ながら、そう呟いた。
貴臣は、御堂島と目があった。
この場で理解しているのはこの二人だけだろうと思ったのだ。
御堂島がそのよく回る口で説明を始めたので、貴臣は大きく欠伸した。
この街には(貴臣達は九条の外へ出ることを許可されていないので、街の外のことは知らないのだった)、通常、人間が知覚することのできないものがある。
そのうちひとつ、「魔素」で構成されているものを万能物質といい、エーテルとも呼ぶ。
本来であればその「魔素」や「万能物質」への干渉力のことを「魔力」と呼ぶべきだが、魔素の量のことを指して使われることが多い。
つまり、魔素や魔力の「魔」の部分を「霊」に変えたものが霊力である。呼び方以外に、違いはないのだった。
諌名はそれを知っているのだろうか、とふと考えた。
彼女は殊更、殊更に自らに流れる血のことを毒だと、穢れているのだと繰り返す。そしてそのうち死ぬのだとも言っていた。
それらは苑宮に吹き込まれたことなのだろうと考えていたが、それだけではないのかもしれない。
そこまで考えて、ふと顔を上げると三人が三人とも貴臣の顔を見ていた。
「……え? 何?」
「いやー、何考えてんだろうなーと思って」
「ンだよるっせーな、なんでもねーよ。他になんか報告することないわけェ?」
「特にないー」
「じゃあ誰か、暇な人、在宮についてもまとめて明日教えて。能面は引き続き苑宮のことを」
「当主、能面では」
「貴臣、あのさあ、もう一つ」
「あ?」
既に立ち上がりかけていた貴臣は、御堂島を見た。
「お前、どういうつもりで諌名ちゃん連れてきたの?」
「……? どういうつもりでって?」
そういえば、諌名にもそれを聞かれた気がする。いや、彼女は「どうしてわたしを連れて行くの」だった。――変わらないか。
「諌名ちゃんをどうするつもりでいるの? 将来的に結婚したいの? 囲いたいの? それとも飽きたら捨てる程度? それがわかんないと僕らも対応に困っちゃうんだけど」
「結婚するかどうかはわかんないけど、諌名以外とは結婚しない。吸血も諌名以外からはしない」
するっと口から出たその言葉は、一番正しいような気がした。
「俺は、自分より優先順位の高いものとして諌名ちゃんのこと扱うから、お前達もそのつもりでいてくれる?」
そう言うと、御堂島は苦笑した。
「御意」
御堂島たちを部屋から追い出して、貴臣は一息ついた。本当は週末課題でもやろうと思っていたのだけれど、気が削がれたので諌名の寝顔でも満喫することにした。
寝室の扉を開いて、暗い世界に包まれる。
『目覚めてから七年間吸血をしたことがない』
孝枝の言葉を思い出し、貴臣は黙って部屋の扉を閉めた。
完全な闇。暗い闇のなかにいる。
貴臣がそれから連想したのは、目覚めた時の暗闇だった。目覚めて最初に感じたのは恐怖である。閉じこめられているという恐怖。暗闇の中で、すぐ側に感じる柔らかい布のようなものが薔薇の花びらであることは匂いでわかった。両手を持ち上げて、自分の上にある何かを押し上げると、意外とすぐにそれは外れてしまった。起きあがってはじめて、自分が薔薇を敷き詰めた棺の中で眠っていたことを知った。
それが七年前のこと。貴臣が目覚めたときのことだった。
何十年眠っていたのか覚えていないが、どうやらとても長くの間眠っていたらしいことは、当時、今より少し若かった御堂島や孝枝に聞いた。既に亡くなっていた祖父の手記からもそれが想像できた。その時貴臣の体は七歳程度だったのだけれど、思考力は今と変わらなかったような気もする。
以来貴臣に取って暗闇はあまり好ましいものではない。吸血鬼の本能的に身に馴染むものではあったけれども、貴臣にしつこく残る人間に似た部分が、薄くまとわりつくような恐怖を厭うのだった。
ああ、けれど。
その暗闇を、貴臣の瞳のようだとねむる間際に言ったのは、愛しいあの少女なのだった。夢と現の狭間のような、微睡んだ声で。表情が僅かに緩んだ。貴臣が厭う暗闇に、諌名は貴臣を見るのだ。貴臣のことを探すのだ。
貴臣はベッドに腰掛けた。そのまま、諌名と向かい合うように横になる。
目にうつるのは、白く白く白く――生命の色が感じられないような陶磁器の肌だった。しかしそれは微動している。そしてそれは、貴臣にだけ、馨しい血管が淡い皮膚を一枚隔てたその下に確かに存在していることを匂わせるのだ。
どうして、吸血しないのだろうか。
貴臣は自問した。
答えは明白である。
明白なのだ。
だから。
考えたくなかった。
それでも、諌名の側に居れば、何でも許されるような気がしたのだ。
貴臣は目を閉じた。そして感じる暗闇に、けれど、諌名が自分を探してくれると思うと怖くはなかった。
諌名ちゃん、おやすみなさい。
口の中でそう呟いて、貴臣は深く眠りの世界へ落ちていった。
© 2008- 乙瀬蓮