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未必の戀の返りごと




ドッペルゲンガーの顔色
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 臣が隣の部屋でずっと待っていたのだと聞いて、諌名は自分もそうしようとしたのだけれど、口に出す前にサチカに止められた。湯冷めなさってお風邪を召されては私が当主に八つ裂きにされてしまいますから、と言って彼女は言った。
 どうしてわたしが言おうとしたことがわかったのかしら、と首を傾げると、彼女はくすりと笑った。
「当主も、同じ事を言いましたから」
 笑うのが少し苦手なひとのようで、その笑みはすこし引きつっていたけれど、諌名はそれに少しだけ親近感を覚えた。諌名は表情を動かすことが苦手だった。臣はどうしてかそれを察しているらしく、直接感情を求められたことはなかった。けれど、彼には諌名の反応を伺っているような節があるのだった。わたしの何を見たいのかしら。
 わたしには、何もないのに。
 それすら察していると言われたことを思い出して、諌名はすこしだけ落ち着かないような気分になって、くちびるを噛んだ。
「……お嬢さま?」
 サチカに尋ねられて、諌名は慌てて顔を上げた。


 再びひとり、臣の部屋に残された諌名は、黙って座っているのも寝室のベッドに上がるのも気が引けて、窓のそばに立った。冷たい外気がガラスをとおして諌名に伝う。冷えてゆく指先の温度と相反した、とろんとした穏やかな眠気が胸の奥を浸すような気がした。
 それからしばらく、どこを見ていたのか、何を考えていたのか、ひどく曖昧な時間を過ごした。
 部屋の扉が開いたので、諌名は視線をそちらへ遣った。そこにはまだ髪を濡らしたままの臣が居て、その立ち姿を見て、ふと安心した。ほんの一時間ほど離れていただけなのになんだかとても久しい気がした。
「臣くん」
 自分が小さく彼の名前を呼んだことに気がついて、諌名は意外に思った。けれど、臣は嬉しそうに笑うだけでそれをとくにおかしいとも思わなかったようだった。
「何見てたの?」
 そう聞かれて、諌名は窓の外に視線を戻した。わたしは何を見ていたのだろう。特に意識もせずに空を見ていたことにようやく気づいて、諌名は首を傾げた。空の色は先ほどよりも更に深く暗くなっていた。
「星でも出てた?」
 隣に来た臣にそう尋ねられて、そういえば自分は星を探していたのかもしれないと思い至る。
「いいえ」
 空にはどこまでも光がなかった。人工衛星も見えない。
 どうしてかしら、と首を傾げると、臣は諌名と同じように空を見上げながら、「雲がかかってるんだよ」と言った。
 そして、諌名の目を覗き込むようにして、微笑む。
 あまりこうして見ないでほしいわ。
 見通されては困ることが少しだけできてしまったの。
「残念?」
 諌名は臣から目を逸らすようにして、窓ガラスに映った自分のすがたを見つめた。それは実物よりも色を失っていて、まるで顔色が悪かった。
「……探そうと思って、探したわけではなかったわ」
 窓ガラスに反射した自分と手を合わせる。ひやり、冷たい温度がてのひらを通して伝わった。ああ、もしかすると、自分もこのような温度なのかもしれないと思った。
 目を瞑る。
 でも、わたしにはわからないんだわ。これが快いのかどうかさえ。眠っているときの自分を誰も見たことがないように。
「諌名ちゃん、眠いの?」
 臣の声が胸にやさしく浸透した。胸に浸る眠気にじょうずに混じって、 諌名の体を重く満たす。それを聞かれるのは今日に入って二度目だったが、今度は頷くことができた。
「でも、まだ髪が乾いてないね。ベッドでかわかそうか」
 諌名がお風呂をあがったのはもう三十分も前のことだったけれど、いかんせん長さがあるせいでまだ乾ききってはいなかったのだ。
 けれど、と諌名は臣を伺う。
「これくらいなら、朝にはかわいているけれど」
「えっ、まさか、自然乾燥?」
 臣が驚いたような――というより、呆れたような顔をしたので、諌名はまた首を傾げた。
「そうだけど」
 臣はうわぁと呟いた。
「いや、でも、何の手入れもしてないのにそんなに綺麗なのはすごい……てっきり毎日何かしてるのかと思っていろいろ用意してみたんだけど……。もしかして、あれ? 肌の手入れもしてないの?」
「……そうだけど」
「うわぁ」
 感嘆にも似た声を上げられて、流石に諌名は少し――少しだけ、不機嫌になった。
「……いけないの」
 声の変化に気づいたのか、臣は慌てたように首を振った。
「いや諌名ちゃんのその外見の美しさがマジの天然物だったことがわかって臣くんちょっとびっくりしちゃっただけだから全然全然いけなくないよ! あれ、諌名ちゃん怒ってる? それとも泣きそう? あれ、泣く? 泣くの? ねえ今泣きそう? あのね俺謝るつもりは満々なんだけど諌名ちゃんが泣くところは正直死ぬほど見たいんだよね、だから泣くなら遠慮なく泣いてくれていいよ?」
「泣かないわ」
「なんだ……」
 臣は頬を膨らませた。
「別に、泣いてもいいんだよ」
「……泣かないわ」
「どうして?」
 どうして、と聞かれても、困ってしまう。
 諌名は視線を落とした。
 物心ついた頃から、泣かないこと笑わないことは諌名の常だったのだから。
 最後に泣いたのは――そう、あのときだ。
 十歳の日、あの夜、諌名の部屋に――兄が来たとき。
 諌名は、窓の外をじっと見つめている臣を見た。その顔色は変わっていない。
「諌名ちゃん、ベッド行こうか」
 髪をかわかしてあげる。
 臣がそう言って諌名の手を握ったので、諌名は窓の自分から手を離した。
 置き忘れるように、ガラスの向こうへ思い出したくないことを残して。






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