未必の戀の返りごと


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喋る能面の怪



 ドアの外で何か話をしていたらしい臣が諌名の名を呼んだので、諌名はそちらへ視線を向けた。彼は落ち着いた歩調で諌名の隣に立ち、顔を覗き込むようにした。このひとはいつも諌名の目を見て話をするのだった。
「お風呂の準備ができたみたいだけど、いまからでも大丈夫?」
 何か決まり事でもあるのだろうか。人の目を見て話さなければならないというルール。
「あれ、大丈夫じゃないの?」
 問われて、返事をしていなかったことに気づく。
「あ……いいえ。大丈夫」
「それじゃあ、行こうか」
 手を差し出されたので、諌名はその手を見た。
 そして、すこし、躊躇って。
 そのてのひらに、持ち上げた自分の手を乗せた。
 目を細めて、諌名はまるでこの感覚を当然のように思う自分がいることを自覚した。浅く、息を吐く。臣の手はそのまま滑って諌名の手首を掴んで、ああ、手を繋ぐより、こちらの方が安心するかもしれないと思った。


 臣と二人で廊下を歩いていると、まるで諌名と臣以外の誰もこの家に存在していないような気分になった。
 というのも、広い、広いお屋敷なのに、廊下で誰にも会わないからである。これだけ大きなお屋敷で一度も人に会わないのはとても不思議なことに思えた。
 実家の奏済の邸宅は、渡りをいくつも通らなければ風呂場には行くことができず、離れから目的の場所へ行くまでは、何度も女中とすれ違うのだった。その度に諌名は立ち止まって目を瞑り、息を潜めて、彼女らが行き過ぎるのを待っていたのだ。苑宮でもそれとはあまり変わらなかった。
 臣の住んでいるこの屋敷は、そんな奏済や苑宮の家屋よりも広いように思える。食堂からここに来るまでひそかに数えていたのだが、部屋数は十を超えたあたりで数えるのをやめた。まるで古い木造の学校の床のような、細い板が敷き詰められた床、その色味、窓の桟にあしらわれた軽い彫刻、それらの方に目が奪われたからだったからでもあったのだけれど。どうやら諌名が今居るところは居住部分であり、人を応接する場所とはつくりが違っているようだった。今日歩いたところはひそかに観察していたのだが、諌名は質素なこちらの方が好きだった。
 ともあれ、ひとに会わないというのは、諌名にとっては好都合なことだった。
 家が広いので偶然会わないだけかしら。
 軽く首を傾げて、諌名は廊下の壁に聳えるようにつくられた、はめこみのガラス窓を見た。
 窓の外にはまるで森と見まごうような薄暗い林が見える。昼に行った裏庭とは方角が違うようだった。目を細めて見通そうとしても暗がりの奥はけして見えず、その底知れない雰囲気が何かに似ているように思って、諌名はその何かを探そうと考え込んだ。
「諌名ちゃん」
 呼ばれて、ふと顔を上げると、臣のひとみと目があった。
 ああ、これだわ。
 そう思って、諌名は深く納得した。
 このひとの目と似ているのだ。まるで何かがよどんだような色をした瞳。見つめていると何もわからなくなってしまうような、諌名を麻痺させてしまうひとみだった。
「どうしたの?」
 臣は軽く笑って、首を傾げた。このひとはとてもよく笑う。その笑顔を見て、諌名は目を伏せた。このように、臣のことを考えていることを知られたくないと思った。
「――なんでもないわ」
「なんでもないの?」
「ええ」
「ふぅん……あ、そうだ、さすがに俺もお風呂の中まではついていけないから、代わりに能面置いておくね。わからないことあったら、それに聞いて」
「……能面?」
 のうめんというのは、あの能面だろうか。
「……あなたの家の能面は、喋るの?」
「え? 諌名ちゃん家の能面、喋らないの?」
「え?」
「えっ?」
 何言ってんの? とでも言いそうな顔でこちらを見られて、諌名は目を逸らした。
 吸血鬼が居るくらいだから、喋る能面くらい、いるのでは――?
 ……、もし、本当に喋ったら――どうしよう。

 じわじわと嫌な想像を膨らましながら歩き、ここがお風呂、と案内された場所に待っていたのは、おどろおどろしい空気を纏い壁に掛けられた呪いの能面などではなくて、スーツを着用した静かな雰囲気の女性だった。
 このひとは、と諌名は昼の記憶を思い出す。恭しく一礼をした彼女は確か、そう、車の運転をしていた人だ。
 ひとだ。
 能面じゃ、ない。
 臣を振り返る。
 すると、痛ましいような神妙な顔を浮かべていた彼が、手の甲で口を押さえた。
「…………臣くん?」
「いや、なんつーか、マジで、本気にするとは思ってなかったっつーか、言葉通り受け取られるとは思ってなかったっていうか、そんな、感じの……」
 そして、堪えきれずに、吹き出した。軽く唇を噛んで、けらけらと笑う臣を見つめる。諌名は本当に能面が喋ったらどうしようとそればかり考えていたのに。考えていたのに。
「…………」
「あっ、ごめん、ごめんってば諌名ちゃん、ごめんってばねえ怒らないでよねえ! あ、でもほら見てみて、ちょっと能面みたいでしょ? 怖くないこの顔? 夜中に廊下で遭遇したら泣いちゃうでしょ?」
 ほら、と臣は女性の顔を指さした。指先が眉間を掠める。女性は軽く笑顔を引きつらせ、口を開いた。
「当主」
「何? 怪奇、喋る能面の恐怖」
「人を安っぽい都市伝説みたいに言うのをよしてください。あと、人の顔を指さしてはいけません」
「顔引きつってるよ、能面」
「誰のせいですか?」
「それじゃあ諌名ちゃん、困ったことがあったらこの人面能面に聞いてね。あと、俺がこうして諌名ちゃんと会わせる人っていうのは、みんな簡単に死なない人達だから、諌名ちゃんは安心してもいいからね。何かあっても、大丈夫だから」
 すぐにはその言葉の意味が理解できなくて、そして理解した頃には臣は脱衣所を出て行ってしまっていた。
 ああ、それでは、
 ここに来るまで人と会わなかったのは、
 諌名は、小さく息を吐いた。
 どうしましょう。
 どうしたらいいのかしら。
 本当に、わたしは。
 胸に手を当てて、諌名はもう一度息を吐いた。
「……お嬢さま」
 臣が出て行った扉をじっと見ていた諌名は、自分が声を掛けられたのだと気づくのに少し時間がかかった。
 振り返ると、女性はもう一度深く礼をした。
「御堂島サチカと申します。どうぞよろしくお願いします、お嬢さま」
「御堂島……さん」
「当主の世話役である御堂島孝明とは従姉妹にあたります」
「ああ……」
「はい」
「あの……、」
 諌名はしばらく言葉に悩んでから、
「奏済諌名です」
 とだけ、呟いた。
 少しの間だけ、臣のことを聞いてみようかと思ったことは、秘密にしておこうと思った。






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