しばらくして、遠くで扉の開くかすかな音がしたので、諌名は臣を動かさないようにそっと起きあがった。
どれくらい時間が経ったのか、時計がないからわからないけれど、カーテンの隙間から見える空の色はたしかに暗くなっていた。夜。夜行性だと言っていたから、朝までずっと起きているのかしら。ああ、でも、今日のお昼は一日起きていたようだけれど、それなら今日はいつ眠ったのだろう。
首を傾げていると、居間の方から人が近づく気配がしたので、諌名はにわかに緊張した。知らないひとだったらどうしようと思った。
おそるおそる伺っていると、寝室の扉が開いた。
「臣ぃー、晩ごはんの時間だけど、寝てるー?」
そんなことを言いながら入ってきたのは見覚えのある御堂島で、諌名はひそかに安堵した。
「あれ? ……ああ、わがまま言われたのか」
諌名を見て首を傾げた御堂島はすぐに頷いて、ベッドの横に立った。すやすや眠る臣を見下ろし、苦笑する。
「こいつ、ずっと寝てた?」
頷くと、御堂島は困ったなーとあんまり困ってなさそうな声色で言った。
「このまま寝かせておくとずーっと寝てんだよねー。僕は別にそれでもいいと思うんだけど、そういうのにすっごいうるさい奴がひとりいてさー、いや僕の双子の妹なんだけど、もうこいつがうるっさいのなんのって」
どうしてそんなにたくさん喋れるのかしら、と諌名が半ば感動していると、御堂島はああそう言えばと諌名を見た。
「晩ごはん作っちゃったんだけど、諌名ちゃんって食べられないものとかある? あとアレルギーとか」
あれるぎー。
アレルギー。
これまで聞かれたことがなかったので、よくわからなかった。奏済でも苑宮でも、出されたものを食べていただけだった。
「……わかりません」
「え?」
声が小さすぎて聞き取れなかったらしい。
「……あの、わかりません。聞いたことがなくて」
心持ち発音を心がけて言うと、今度は通じたらしく、御堂島はそっかと言った。
「いつもは何を食べてたの? ふつうに、白いご飯とおかずとおみそ汁みたいな感じ?」
諌名が頷くと、御堂島も頷いた。
「じゃあ次からそうしよう。あ、良かったらそいつ起こしてくれない? 僕が起こすと怒るんだよね」
そいつと指されているのは、頭上でずっと会話をされていたのに全く起きる気配のない臣だった。御堂島が起こして怒るなら、諌名が起こしたって怒るのではないだろうか。
起こす……起こす。
人を起こしたことなんてこれまでなかった。
どうしたらいいのだろうと悩んで、熟慮の結果、諌名はずっと握られたままだった手をそっと抜いた。
すると、声をかけるまでもなく臣は薄く目を開けて、諌名を探すようにこちらを見た。
「臣くん」
名前を呼ぶと、臣は瞬いた。
「……なぁに」
声は掠れてはいたが、怒っているわけではなさそうだったので、安心した。
「晩ごはんの時間だから、起きて」
「ああ、うん……諌名ちゃん、ずっとここにいた?」
「……? 居たわ」
「ずっと?」
だって、そうしろと言ったのは臣なのに。
すこし戸惑いながら、諌名は頷いた。
「……ああ、それで幸せな夢見たんだ、俺……あー」
そう言って臣は満足げに目を瞑った。数秒間そうしていて、それからゆっくり起きあがる。そしてそのまま諌名の頬に手を当てて、まっすぐ視線を合わせた。すこし、鼓動が、早まった。ああ、どうしたらいいのかしら。今日一日で、一生分の鼓動を使い果たしてしまうような気がしてならなかった。どうせ早くなるのなら、そのまま止まってしまえばいいのに。
その目が、よどんだような黒いひとみが、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよぉ、諌名ちゃん」
籠の――鳥も。人形も。
きっと、同じように感じるに、違いないのだから。
だから、これは。この、浮いた気持ちは、全部。
錯覚を押さえ込むように俯くと、臣の指先でぐっと視線を戻された。強制的にもう一度視線が合って、諌名は目を見開いた。
「……臣くん?」
「おはよう、諌名ちゃん」
「……え?」
「挨拶されたら、ちゃんとお返事しなきゃだめでしょ?」
嬉しそうに、楽しそうに、笑ったまま。
「はやく」
そんなことを言われて、諌名は何も考えられなくなってしまった。
「…………、おはよう……ございます……」
呟いた声はなんだか酔っているようで、ああこの声が御堂島にも聞かれているのかと思うとどうしようもなく恥ずかしくなった。目を伏せるが、今度は許してもらえたらしく、視線を強制されることはなかった。
「はい、おはようございます。あーもう、たまんなぁい、諌名ちゃん抱き締めてもいい? いいよね?」
困る、と言おうとしたけれど、笑いを堪えるような御堂島の声がそれを遮った。
「いちゃついてるとこ悪いけど後にしてもらえるかなぁ、臣くん? 俺がわざわざつくったご飯が冷めるでしょ?」
「その呼び方やめてくんない? 諌名ちゃんに呼ばれるのはいいけどお前に呼ばれると気持ち悪い」
「うわあー、傷ついたー」
「諌名ちゃんはかわいいけど御堂島は別にかわいくないじゃぁん」
言いながら、臣は当然のように諌名の腰に手を回した。え、と思っている内に、臣の腕の中に引き込まれる。心臓が大きく跳ねた。体温が近くて、触れる面積がおおきくて、
それは、予想の外の行動で。
だから、諌名は、驚いた。驚いて――しまった。
「……っ、」
急いで唇を噛んだけれど間に合わなくて、零れてしまった息と同時に、部屋に何かが弾けるような音が響いた。一瞬の後、枕元からガラスが割れるような音が聞こえた。水を入れていたコップが割れたのだろうと、諌名から乖離した冷静などこかが考えた。
はしってしまった。
諌名の魔力が、外に出たのだ。声は出していないのに、息と一緒に零れてしまった。
体内に冷水が満ちたようだった。
ああ、ああ、いけない、いけないわ。
息を、止めなきゃいけないわ。
ごめんなさいと思うのに、息を止めていては声も出なくて、そして声を出してしまったらまたそれに魔力が乗ってしまうのではないかという恐怖も相まって、諌名はぴくりとも動けなかった。
静まりかえった空間で、御堂島が「あー、こういうことね」と呟いたのが耳に入った。
ごめんなさい。
謝るには、どうしたらいいの。
声も息も止めたまま謝るためには、どうしたらいいの。
なんだか諌名は泣きそうになってしまった。でもそんなことをすればきっともう止まらない。どうしよう、どうしたらいいの。
臣からも離れなくてはと思うのだけれど、諌名はまるで縋るように抱きついたまま、動くことができなかった。あるいは本当に縋っているのかもしれなかった。
怖かったのだ。
自分の口がわずかに動いたような気がした。
縋るように、乞うように。
その名を呼んだ、気になった。
「……御堂島ぁ、ちょっと出てて」
臣のその言葉で、御堂島は意外なほどにあっさりとはぁいと答えた。そして、そのまま部屋を出て行った。
扉の閉まる音を聞いて、諌名はようやく呼吸を再開した。まるで安心したように。酸素を求めて、息を吸う。臣の体は暖かくて、諌名は泣いてしまいそうな目を閉じた。
しばらく経って、ようやく諌名の呼吸が正常なリズムに戻った頃に、臣が口を開いた。
「諌名ちゃん」
名前を呼ばれて、諌名はゆるやかに頭を持ち上げた。そのまま、そっと体を離す。臣の顔を見て、視線が合って。
「…………ごめんなさい」
ああ、聞き取れなかったかもしれない。自分でそう思ってしまうようなか細い声しか出なかった、けれど、臣は穏やかに目を細めた。
「びっくりさせちゃった?」
その声があまりに優しく響いたので、諌名はまた泣いてしまいそうになった。穏やかなひとみを見ていられなくて、目を伏せる。
ああ、思ったよりも、早かった。そう思いながら、囁く。
「いらないって、言って」
「どうして?」
「……死んでしまいたいの」
どうしてそんなことを言ったのか、諌名にもよくわからなかった。今日は慣れないことばかりだったから、つかれていたのかもしれない。
「そっかぁ、それじゃあ、仕方ないね。でも、俺っていま諌名ちゃんのためだけに生きてるからぁ、諌名ちゃんが死んだら俺も後を追って死ぬね?」
諌名は、顔を上げた。臣の目をみて、それが楽しそうに笑っているのを見て、戸惑う。
「……わたし、」
「あのね、俺、割と本気だよ。嫌われたくらいで死んじゃう俺が、諌名ちゃんが居なくて生きていけると思ってるの?」
言葉を失った。
ああ、この人がここまで間違っているなんて思わなかった。こうなる前に、言ってしまわなければならなかったのに。
諌名は痛ましいものを見るように目を細めた。その視線を真っ向から受け止めて、臣は笑った。
「選択権は諌名ちゃんにあげる。どうする? 俺と一緒に、生きたい? 死にたい?」
言いながら体を引き寄せられて、諌名は熱い息を吐いた。
この人は、一時の錯覚で、諌名を大事なものだと思いこんで、自分の命まで懸けてしまおうとしているのだ。
「……だめよ。あなたは、」
「勘違いをしている?」
今まさに言おうとしていたことを先回りされて、諌名は言葉を失った。
「……どうして」
気づいているなら、やめればいいのに。
「ねえ、諌名ちゃん、勘違いしてるのってどっちだと思う? 俺と、諌名ちゃんと」
そう言う臣の声は、とてもとても楽しそうだった。
「……どういうこと?」
「諌名ちゃんは誰のものだっけ」
「…………」
それは、それは――、今日の、あの言葉を指しているのだろうか。
「ねえ、言ってよ。今日、諌名ちゃんは誰のものになったの?」
耳元で、あの甘い声で、囁かれる。
「……あれは、」
「言って」
耳を甘噛みされて、ぞくっと背筋が震えた。何も、考えられなくなった。
「…………、あなたの……?」
「うん、そうだよ。わからないならわからせてあげる。諌名ちゃんは俺のだよ。諌名ちゃんの所有権は俺にあるの。諌名ちゃんのぜんぶ、この髪も、睫毛も、眼球も唇も舌も指も爪も耳も視線も声もなにもかもぜんぶ俺のものだよ。だから諌名ちゃんは俺と一緒じゃなきゃ部屋の外には出れないし、諌名ちゃんは俺に命令されたことは全部従わないといけないの。これまでもそうだったでしょ? 諌名ちゃんはもうわかってるはずだよね? だって今日、俺に命令されたこともお願いされたことも全部言うこと聞いたもんね? 名前を呼ばれたら返事をしたよね? ねえ、そうだよね諌名」
まるで呪われているようなその言葉の質量にすべてが押し流されてしまいそうだった。
「……ぁ、」
「違う」
「……、はい……」
「そう、それそれ。お返事できたね、えらいえらい。かわいい、すき。で、諌名ちゃんが俺のものだってことはもう諌名ちゃんも俺も認めてるわけだけど、俺は諌名ちゃんに嫌われたら死んでしまうから、諌名ちゃんが嫌がることなんてなるべくしたくないし、諌名ちゃんに嫌われたくなんかないから、なるべく諌名ちゃんの意志を聞こうと思ってるの。ここまで、わかった? 諌名」
自分が、更に深く間違っていくのを感じた。
けれど、けれど、
「……はい」
だって、お返事するの、気持ちがよくて。
止められない。
「いいこいいこ。諌名ちゃんがしたいようにさせたいの。嫌われたくないから。だから、諌名ちゃんが選んだ方にしてあげるよ。どっちがいいの?」
「……どっち、って」
「俺と二人で、生きたい? 死にたい?」
ああ。
ああ、そんな。
そんなことを、わたしに、聞くの。
「……、」
「答えて、諌名ちゃん」
息が詰まった。
「……、あなた、は……」
「答えてって言ってるんだけど」
「――、…………、」
臣はこれまでと違って答えを待ってくれなかった。待って、わたし、追いつかないの。どうしていいのかわからない。しかし、それを伝えることすら許されていない。臣の肩越しに壁を見つめて、そして、諌名は消え入りそうな声で呟いた。それしかないのだ。言わなければ、伝わらないから。
「わからない」
臣の様子は変わらなかった。それを感じて、目の奥がじわりと熱くなる。どうして。目なんか触られていないのに。
「……わからないの、わたし、本当に」
「わかんないじゃなくて、答えてほしいんだけど、諌名ちゃん。なるべく諌名ちゃんの希望に添った方にしたいからさぁ」
どうしてそんなこと言うの。
いっそ優しいほどの言葉に突き放されたような気持ちになって、諌名は不安定な天秤を抱えているような心境に陥った。どうしたらいいかわからなくて、臣の体温を感じて、さらに何もわからなくなる。
「わたし……、わたし、ひとりだったら、死んでしまいたいと、思うけれど、臣くんのことは、死なせたくなくて、……、だから、」
「選択肢はね、俺と生きるか死ぬかだよ。二択しかない、諌名ちゃん」
「…………、許して、お願い」
呟いても、臣はやはり穏やかな声色で、助けてはくれないのだった。
「俺と一緒にいるの、いや?」
「そういうことじゃ……ないわ」
「じゃあそういうこと考えてよ」
「だめ、……だめよ、わからないわ」
「いさな」
耳元で囁かれる甘い声に、諌名は頭の中が麻痺してしまったような気がした。そして、ああ、と思う。
さいしょから、こうすればよかった。
「……わたし」
「うん」
「わたし、わたし……あなたに従うわ……」
「どういうこと?」
「あなたが、したいように、してほしい……わたし、わたしは、本当に選べないの。早く死んでしまいたいとしか思えなくて、どうしようもないの。わたしは……あなたの、もの、だけれど、あなたは、やはり勘違いをしていると思う。わたしのことを、大事にしすぎているように思うわ。でも、わたし、わたしが捨てられる分には、構わないから」
自分で聞いていても支離滅裂に思えた。
けれど、臣が文句を言わずに聞いてくれるから、やっと、遮らずに聴いてくれるから、止められなかった。
唯一の正解を見つけたような気持ちになった。
「だから、だからね、臣くんがしたい方にしてほしい、嫌いになんかならないから、わたしに選ばせないで、あなたに従わせて……」
「俺が選んでいいの?」
ああ、よかったと思った。考えなくても良くなる気がした。
「それじゃあさ、諌名ちゃん」
臣の声の質が変わったような気がして、諌名はずっと臣の肩に預けていた頭を上げた。体を離して、顔を見る。けして奥を見通せない、濁りきったひとみが諌名を見ていた。
「従わせてくださいお願いしますって言ってみて?」
そのひとみが、そのひとみが、諌名を見通すそのひとみが、愉しげに、とても愉しげに、笑っていたから。
何もわからなくなってしまった。ああ、どうして、これでは、まるで。
諌名はまるで、臣に、操られていたような。
そんな感覚に囚われて動けなくなってしまった諌名を見て、臣は首を傾ける。
「なぁに、どうしたの諌名ちゃん? そんなかわいい顔でこっち見てたら、泣かせたくなっちゃうんだけど」
今みたいに。
そう言って、臣は堪えきれないように声を出して笑った。
「ほんと、かわいかった、かわいかったよ諌名ちゃん、だいすき、はあ、ほんとたまんなぁい……あのね、諌名ちゃんに何もないんだろうなあっていうのはね、俺、なんとなくわかってたんだぁ……あと、いなくなりたいんだろうなってことも、わかってたんだよ」
臣は、諌名の腰をするりと撫でた。諌名の体が反射で跳ねる。けれど、さきほどのように魔力が走ったりはしなかった。
臣のひとみから目が逸らせない。
「だからね、なんとなくだけどわかってたから、俺はね、どうしても諌名ちゃんに自分から言わせたかったの、諌名ちゃんのそのかわいいお口が、かわいいかわいいその声がね、あなたに従わせてくださいって、あなたのために生きますって言うところが見たくて見たくて、仕方がなくて、っ、ふふ、そしたら、諌名ちゃん、ほんとに言っちゃうんだもん!」
臣は心の底から嬉しそうに目を細めた。
「それで、諌名ちゃん、もう一回聞くけどぉ、諌名ちゃんはぁ、俺と一緒に生きたい? それとも、死にたい? 俺と一緒に、居たくない?」
「――……、」
諌名は口をひらいた。
もう――だめだと、思った。
「あなたに……従わせてください」
口に出した瞬間に、体から力が抜けた。完全に臣に体を預けきって、甘くよどんだ息を吐く。
「…………お願いします」
「わかった?」
「……?」
「諌名ちゃんは、今日俺に会ったときから俺のものになったんだってこと、ちゃんとわかった?」
わからないなら、わからせてあげる。確かに、臣はそう言ったのだ。
「返事は」
「……はい」
「えらぁい、いいこ」
撫でられて、抱き締められた。
「初日で諌名ちゃんの生死が握れて俺はとっても嬉しいよ諌名ちゃぁん、だいすき。あ、当然だけど、俺のためにずっと生きててね? 自分が死ぬことなんか考えないで、ずーっと俺のことだけ考えててよ諌名ちゃん、いいでしょ?」
こんなにいいように扱われているのに、諌名は何故だかそれを嫌だとは思っていないのだった。
耳元で囁かれる声が甘かったからかもしれない。
「……はい」
ああ、わたし、甘い声が好きなのかしら。どこか、まだ稼働している部分がそう考えた。
名前を一度、呼ばれるごとに、体が熱を持つような気がした。
返事を一度するごとに、どこかが麻痺する感覚があった。
さっきまであんなにうるさく鳴っていた鼓動が眠る前のようにゆっくり動いていて、けれどもうそれが止まることを望んだりはできないのだと思った。臣が生きてと言ったから。諌名はそっと目を閉じる。自分で選ばなくてもいいというのがこれほど穏やかな感情の理由だろうか。
ただ緩やかに、撫でられるままに目を瞑っていると、臣があっと声を上げた。
「諌名ちゃん」
「……はい」
「あのね、このままでいる?」
「……何が?」
「そういえば御堂島とごはん放置したままだったなー、みたいな。諌名ちゃんがこのまま俺の腕の中に居たいなら別に飯なんて抜いてもいいんだけど、どうしよっか?」
すっかり忘れていた。
諌名は、黙って臣の腕の中から抜け出した。一瞬寒いと感じたけれど、それは甘えが過ぎると思った。
「えー、ほんとにやめちゃうの? もっと一緒にいようよぉ」
「……だめ」
これ以上いると、おかしくなってしまいそうだった。
ベッドから降りようと、爪先をおろす。
「諌名ちゃん」
振り返ると、臣が幸せそうに微笑んでいた。
「すきだよ」
――おかしくなってしまいそうだわ。
本当に。
諌名は目を逸らした。
「……さっき、聞いたわ」
「そうだっけ?」
「そうよ」
「聞き足りないんじゃない?」
「もういいわ」
「俺は言い足りない」
「……後にして」
「わかった、後で嫌になるほど言うことにする」
馬鹿ね。
そう呟いたのが自分に対してだったのか臣に対してだったのか、それすらわからなかったけれど。
臣は楽しそうに笑っていたので、それでいいかと諌名は思った。
© 2008- 乙瀬蓮