諌名の手を取ったまま目を瞑ってしまった臣を見て、諌名は小さく息を吐いた。臣の頬に触れているてのひらはやはり熱くて、この手が吸血鬼よりも冷たいと称されたのかと思った。人形のようだと言われたことも思い出す。けれど、けれどきっと、臣と触れているときだけは人形よりも人間寄りの体温になっているに違いないと思った。
体のどこかが作り替えられてしまったように思えた。これまであんなに苦手だったはずの熱さえ好ましく思えてしまうのは、諌名のどこかがおかしくなったからだろう。それとも、これまでおかしかったどこかが正常になったのだろうか。
ああ、それでも――どちらにしても、心臓だと思った。
だって、もう触れてなどいないこの胸の奥が、こんなに熱い。
さきほどのように胸の中心に手を当てて、諌名はゆっくり目を細めた。
「眠い?」
顔を上げると、臣は目を開けてこちらを見ていた。
いつから見ていたのかしら、と思いながら、諌名はいいえと答えた。さっき目が覚めてから、眠気はぱたりとどこかへ飛んでいた。これは以前からそうだった。寝起きは良い方なのである。
「そっかぁ」
臣は残念と言って横の方を見た。視線を追うと、そちらには別の部屋に通じているらしい扉があった。鍵がかかるようになっているところを見ると、寝室なのだろうか。
「……眠いの?」
尋ねると、臣は頷いた。
「眠いの」
そういえば車の中でもこの少年が眠っていたことを思い出す。寝不足なのだろうか。
「俺、基本的に、夜行性だから」
そういえば、このひとは吸血鬼なのだと思い出した。
諌名は、軽く首を傾げた。
「いま眠ってはいけないの?」
「別にいけなくはないんだけどね?」
臣は、少し面白がるような顔をして諌名を見た。
「諌名ちゃんは、俺が眠ってる間も側に居てくれますか?」
そんなことを言うので、諌名はぱちりと瞬きをした。それで何かが切り替わるわけではなかったけれど、すこし、鼓動が落ち着けばいいと思った。
「……側?」
「うん。諌名ちゃんが居ないと眠れない」
「それなら……そうするけれど」
「ほんと?」
どうして確認するのかしら。
無意識のうちに胸に当てていた手に気づいて、諌名は目を逸らして、頷いた。
「……ええ」
臣は、最初に会った時のように、にやっと微笑んだ。
ああ、こんな風に扱われてしまったら、まるでわたしに価値があるみたいだと諌名は思った。ふわりと浮いた気分は揺れて、すぐさまそっと地に落ちた。
すうっと何か冷たいものが胸に満ちるのがわかった。朝のいつものとばりのように。
馬鹿なことを――考えたものだと、思った。
価値とは、諌名と最も遠いもの。誰にとっても、諌名は迷惑以外の何になるはずもないのだ。このひとはそれにまだ気がついていないだけ。
それはけして忘れてはいけないことだと思った。あやまちなのだ。これは、全部。
苑宮の当主が諌名を指して害悪と言ったのを、あのとき諌名はそのとおりだと思ったのだ。それを聞いて、この白い少年の目も覚めるのではないかとも思った。けれど彼は醒めなくて、だからきっと、これから醒める。
そう、きっと、のぼせているのだ。
臣も、諌名も。
ちいさく、息を吐く。
自分がいま、すこしだけ満たされているように思うのは、これまで必要とされたことが無かったからだということを諌名は理解していた。そして、臣だってきっと、諌名の何かを、好む何かになぞらえているだけ。諌名には何もないから、それは簡単なことだろうと思う。
捨てられるのは諌名だろう。要らなくなった人形はきっとどこかに置き去りになる。
諌名がいかに何も持っていないのか、それをこの少年が知るまでが、制限時間なのだと思った。
臣の錯覚の上に立つ楼閣が崩れる時が諌名の終わり。
きっと、臣が最後だろう。
この次はもう諌名を拾うひとなどいない。それは、静かな確信だった。だから、臣が諌名をいらなくなったら、次こそ諌名は死んでしまおうと思った。
暴走するまで待つことなど、ないのだから。
そう考えると、諌名はすこしだけ安らいだような――それでいて、すこしだけ切ないような、気持ちになった。
これは、臣に伝えた方がいいことだろうか。諌名は少し悩んだ。
「諌名ちゃん」
名前を呼ばれて、諌名は自分がずっと黙り込んでいたことに気がついた。
「……、あ……」
「何を考えてたの?」
諌名を見つめる臣のひとみはじっと何かを見通すようで、諌名は少しだけ怖いような気持ちになった。
そして反射で、知られたくない、と思った。
今諌名が考えていたことも、さっき諌名が感じたことも、きっとこの少年が求める人形性とはほど遠い。
「……なんでもないわ」
自分で気づいてしまうほどに頼りない声。
諌名は、口と頭と心臓が分離してしまったかのような感覚に襲われた。胸は確かに高鳴って、口はわずかに躊躇って、頭は静かに戸惑った。
どうして、諌名は言わなかったのだろう。静かに思考が加速する。
ほど遠いなら、その方が、早く気がつくはずなのに。臣が錯覚に気づくはずなのに。どうして諌名は言わなかったのだろう。なんでもないと言ったのだ。
どうして気づかれたくないと思ってしまったのだろう。諌名は何かが怖かった。このまま考え続けることが怖かった。けれど、頭は止まらない。
言えばよかったのだ、今。考えたことを言えばよかった。そうしたら、そうしたら、きっと臣は諌名を要らないと言ってくれるはずなのに。
諌名を要らないと言ってしまうはず、なのだから。
それに気づいてしまうから。
諌名は、言葉を失った。
それは――それはつまり、
「諌名ちゃん」
遮ったのはやはり臣の静かな声だった。瞬間、すべてが切り替わる。朝の帳より明らかに、諌名の何かが切り替わった。
ああ、よかったと思った。これ以上のことを考えたくなんてなかった。
「……はい」
返事をするのが心地よくて、やはり言わなくてよかったと自然に思った。
臣が気づくその日はきっと遠くない未来なのだから、それまですこしだけ黙っていても許されるのではないだろうか、と思った。
臣は少しだけ諌名の目を覗き込むようにして、それからすこし、微笑んだ。許されたような気持ちになった。
「……あのね、寝室、こっちだよ」
そう言って、臣は立ち上がった。手を掴まれたままの諌名もつられて立ち上がる。ずっと座っていたので脚が上手に動かなかったが、臣は思ったよりもゆっくりと歩いてくれたので躓いたりはしなかった。さきほどの膝掛けといい、気遣いがとても細やかなひとだと思った。直後、見られたくなかったドレス姿を無理矢理見られたことを思い出して、そんなことはないのかもしれないと思い直す。
ああ、けれど、
繋がれた手を見下ろして、諌名は何かを吐き出すように、ささやかな息を吐いた。
臣が諌名を軽くすることは確かだと思った。
ふあぁ、と臣がおおきくあくびを零したのを見て、ああ、猫のようだと諌名は思った。本物の猫なんて一度も見たことはないのに、どうしてそんなことを思うのかはわからなかったけれど、すこしだけ面白いと思った。
寝室の扉を開けてまず目に入ったのは大きなベッドだったが、それはどう考えてもひとりで眠るには大きすぎるような気がした。諌名が使っていたふとんとはまるで違ったので、驚いた。
「……ここに、ひとりで寝ているの?」
「うん。今日から諌名ちゃんも一緒だけど」
臣はちらっとこちらを伺った。
「嫌?」
「……いいえ」
「あ、ほんと? よかったぁ、俺諌名ちゃん居ないと眠れない気がして」
臣はもう一度あくびをして、諌名の手を引いたままベッドのふちに腰掛けた。
「……これまではどうしていたの?」
「何を?」
「眠るとき」
「ひとりで寝てたよ」
「……」
要らないじゃない。
そう思ったのがわかったのか、臣は苦笑した。
「諌名ちゃんと会う前のこと、どうやってたのかもうよくわかんないんだよね」
臣に手を引かれて、諌名もベッドの上に座った。それは適度に柔らかく、とても寝心地が良さそうに思えた。
「俺、どうやって眠ってたんだろうね? 諌名ちゃん、わかる?」
「……わからないわ」
「諌名ちゃんはこれまでどうやって眠ってた?」
どうやってなんて、言われても。諌名は、困って俯いた。
「わかんないでしょ」
言いながら、臣はゆっくりと横に倒れた。反動でベッドが揺れる。
「わかんないんだよ」
だから、もう、だめ。
そう言って、臣は諌名の手を強く握った。
「諌名が手に入っちゃったから、もうそれ以外のことわからないし、もう諌名以外いらない」
「……それは、」
「諌名ちゃん、俺が起きるまでここに居てね」
諌名の言葉を遮って、臣はそう言った。
自分が何を言おうとしたのかやっぱりわからなかった諌名は、黙って頷いた。
「手も離さないで」
「どうして?」
「きもちいいから」
諌名ちゃんの体温が。そう言う臣はもう半分くらい眠っているようだった。
冷たいのがいいなら、と思って、諌名は一度臣の手を離した。臣が驚いたように目を開けてこちらを見たので、諌名も驚いた。
「……こっちを」
左手を臣の顔から少し離れたところへ置いた。
「……どうぞ」
こちらの方が、つめたいわ。
そう言うと、臣はため息をついた。その掌が、重なった。
「……いま、もう、嫌われたかと思って、死ぬかと思った」
「……わたしに嫌われたくらいで死なないで」
「たぶん死ぬから、そのつもりでいて」
のぼせているのだ。
きっと。
諌名は、空いた右手を膝に置いた。
「きもちいい」
すき。
諌名の指をその指で撫でながら、臣が、そう言ったので。
のぼせているのだ、ともう一度、言い聞かせるように思った。
「……それは、よかったわ」
諌名だってこの温度を気持ち悪いなんてけして思ったりしないから。
「好きだよ」
「……さっき、聞いたわ」
「そうだっけ?」
「……眠ったら?」
「じゃあ何かお話ししてよ」
「お話……?」
「なんでもいいよ」
俺のこと寝かしつけて。
そう言う臣はまるで面白がっているようで、諌名はすこし面白くなかった。
「…………、あのね」
臣が完全に目を閉じているのを見て、諌名はゆっくり言葉を紡いだ。
「もう、わたしは外には出られないのだと思っていたの」
さきほどの臣の言葉を思い出して、その甘い声を思い出して、諌名は目を閉じた。
「だから、あなたと一緒なら部屋から出てもいいと言ってくれたとき、すこし、嬉しいと思ったわ。……あのお庭に、もう一度行きたかったから」
「……もう一度なんて言わないでいいよ。何回でもいいから」
その言葉を少しだけ寂しい気分で聞きながら、諌名はそうねと言った。
「……諌名ちゃん、他に、何がしたい? あのね、なんでもいいよ。なんでもしてあげる。諌名ちゃんがしたいことでも見たいものでも、ぜんぶ、俺が叶えてあげるから」
そう言う臣の声はどこか泣いてしまいそうに聞こえた。
どうしてかしら、と思った。
諌名の手をまるで捕まえるみたいに強く握って、臣は呟くのだった。
「なんでも、いいから……」
「……そんなことを言ってしまって、いいの?」
「いいよ。もし諌名ちゃんがここから逃げたいならそうしてあげる。俺も一緒だけど」
それは臣がしたいことなのではないかと思った。
逃げたいのは、この場所から逃げてしまいたいのは。
そう思ったけれど、諌名は言わないことにした。代わりに、さきほどの臣のあくびを思い出す。
「……猫」
「……ねこ?」
「猫を見てみたいわ」
「…………、ああ、奇遇……あのね、俺もさっきそう思ったところ。運命だ……なんだっけ、あの、あいつ……名前、忘れちゃったあ、うちの庭師がね、猫を飼っていたはずだから、連れてきてもらおうか」
「ええ」
「約束ね、諌名ちゃん」
「ええ」
そうね。
それに答える声が無かったので、諌名は臣の顔を見た。その目は静かに閉じられて、白くて細い髪がそれを隠すように覆っていた。
胸が大きく動いているのは、眠ってしまったからだろう。
諌名も小さく息を吐く。
おやすみなさい、と呟いて、諌名もそっと目を閉じた。
© 2008- 乙瀬蓮