未必の戀の返りごと



この温度差の理由をおしえて
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 返事をした後、じっと貴臣を見ていた諌名が、ゆっくりと体を起こし始めた――途端に肘からがくっと力が抜ける。慌てて手を貸そうとすると、か細い声で大丈夫と言われた。その覚束なさは全然大丈夫そうには見えなかったけれど、仕方なく貴臣はまた床に膝をついた。諌名の動きは遅々として、古いからくりのようでもあった。
 その人形性が、じわりじわりと貴臣の好奇心を刺激する。視線がするりと諌名の腹部に滑った。ああ、この少女にはちゃんと内蔵が入っているのだろうか。こんなに薄くて、抱き締めればあっさりと折れてしまいそうな体に。
 確かめてみようかとも思ったが、本当に折れてしまっては困るのでやめることにした。
 その辺りでようやく諌名は椅子に座り直すことに成功した。一苦労だったように息を吐いて、髪が少し乱れていることには気づいていないのか、頓着していないのか。
 貴臣は腕を伸ばして、諌名の髪のほつれをほどいた。そのまま何度か指通りの良い髪を梳いてとかした。気持ちがいいのか、ほんのわずかに諌名が目を細めるのが猫のようでたいへんかわいいと思った。生まれてこの方猫をかわいいと思ったことは一度もなかったが、諌名がこれだけかわいいのだから実は猫もかわいいのかもしれないと思った。
 ああ、かわいい。
 貴臣は、しみじみと諌名に見入った。苑宮でも庭でも、こうして眺める暇はあまりなかった。いっそ不健康にも見える白磁の肌に、濡れ羽色の長い髪。そしてその体は吸血鬼よりも冷たいのだった。
 そのうつろな雰囲気が更に貴臣の胸を衝いた。
 よくもまあここまで貴臣の好みに沿った人間が存在していたものだと思った。
 ここまでくると本当に貴臣のために造られた人形なのではないかという気にすらなってくる。
 ふと不安になって、貴臣は諌名の手首を返して、握ってみた。青い血管は見えているのに、脈が見あたらなかった。あれ。
 触れた肌の体温の低さも不安に拍車をかけて、貴臣は少々引きつりながら諌名に問いかけた。
「諌名ちゃん……諌名ちゃん、生きてるよね?」
 諌名は不思議そうな無表情を浮かべた。顔が動いていないのに、目を見るだけでどんな表情をしているのか察しがついた。
「……たぶん」
「たぶん……」
 貴臣が繰り返すと、諌名は首を傾げた。
「わたしが生きていないように見えるの?」
「うん」
 頷くと、諌名は困ったように瞬いて、それから左手を持ち上げて胸の中央に当てた。数秒待って、それから貴臣を見た。
「動いているわ」
 ああ、そちらで確かめればよかったのか。
 貴臣は諌名の手を掴んで動かして、代わりに自分の掌を当てた。僅かに柔らかい感触があった。諌名の体がにわかに硬くなる。鼓動は少し早めに思えたが、心臓はちゃんと動いていた。安心して、息を吐く。確認してみれば当然のようにも思えたが、生きていた。生きているのだ。この完璧な少女が、貴臣のためにあるような少女が。
 貴臣は甘いため息をついた。
「……臣くん」
 困ったように名を呼ばれた。諌名は顔より声の方が饒舌なのだ。そう、この温度の低い声も耳障りがよくてたいへん気持ちが良くて、ああ、これを他の人間に聞かせない方法はないかなあ。
「臣くん」
「あっ、はい」
 我に返って返事をすると、じっと貴臣の顔を見つめられた。
「えっ、何、諌名ちゃん、どうしたの? 照れるんだけど……」
「……手を」
 はなして。
 言われてはじめて、ずっと自分が諌名の胸に触れていたことを思い出した。
「ああ……」
 言われたとおり手を離すと、諌名は黙って俯いた。その様子を見て、不安がよぎる。もしかして、嫌だったのだろうか。ああそれにしても睫毛が長い、重くないのだろうか。いや、重さなどはあってないようなものなのかもしれない。ああそうじゃなくて、嫌だったかどうかを。
 あっでも本当に嫌だったなんて言われたらどうしよう。
 貴臣は割と深刻に悩んだ。
 嫌いと言われたら途端に死んでしまう予感がした。
「諌名ちゃん、嫌だった?」
 尋ねると、諌名は更に困ったような雰囲気になった。貴臣は更に泣きそうになった。どうしよう、死んでしまうかもしれない。まだ諌名ちゃんの血も舐めていないのに。
 諌名は少し逡巡していたようだったが、小さく口を開いた。
「嫌では……なかったけれど」
 けれど。
 けれど?
 貴臣が言葉の続きを待っているのを見て、諌名は視線を揺らした。
「……熱くて」
「熱い?」
 貴臣が繰り返して尋ねると、諌名は頷いた。
「最初から。あなたに触れられると、熱くて……手首も、胸も」
 甘い想像をしてしまいそうになって、貴臣は熱い息を吐いた。
「諌名……ちゃん、は」
 もしかして、貴臣と同じような感情を抱いているのではないか、なんて。
 馬鹿なことを。
「――体温が低いもんね。吸血鬼より冷たいなんて、あんまり……ない」
 諌名の手を取って、頬に当てた。気づかない内に熱くなっていた頬が冷えて、快かった。
 この熱は今、諌名に伝わっているのだろうか。
 ああ――そう、もしかしたら、貴臣の熱が諌名に伝わっているのかもしれないと思った。それで諌名は熱を感じて、ああそうであってほしいと思った。
 伝って、伝って、いつか、諌名も貴臣に返してくれたらいいのに。
「これは、いけないことかしら……」
 諌名が小さく呟いたので、貴臣はそっと微笑んだ。
「冷たくって、きもちいいよ。諌名ちゃん」
 諌名ちゃん。
 貴臣は、目を閉じた。






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