未必の戀の返りごと


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シュレディンガーの輪郭線


 自身を吸血鬼だと言ったその少年は、玄関を出、陽の光を浴びた途端に何か不快なものを見るようにぴくりと眉を動かした。その表情は苑宮の人間が諌名を見るときと同じ毛嫌いの色を帯びていたので、そのとき初めて諌名はああこのひとは本当に吸血鬼なのかもしれない、と思った。
 吸血鬼は光を嫌うから……だろうか。ああ、けれど、それならば、どうしてこんな時間に出歩いているのかしら。諌名はすこし不思議に思った。
 そもそも、どうしてこのひとは苑宮になど来たのだろう。
 尋ねようかと思って、けれど、少年の具合が悪そうに見えたので、諌名は口をつぐんだ。
 ついさきほどの会話を思い出す。
 諌名の血を飲むのかと問うたとき、彼は一瞬言葉を詰まらせた。その顔を見たとき、諌名は自分がいかにおろかな質問をしたか知ったのだ。
 当然だ、わたしの血など飲む筈がない。
 あれほど、何百と穢れていると言われ続けてきたのに、諌名は未だそれを理解してはいなかったのだ。
 穢れた諌名の血などは、きっといやな臭いがするのだろう。食欲などが、わくものか。
 もしかしたら、諌名が側にいることすら、この少年の体調を阻害しているのではないか。
 ああ――、それならば。
 諌名は、自分の手首を掴んで歩く少年の白くて長い指をみつめた。
 この人は、どうして諌名などを連れて行こうと思ったのだろうか。
 そう考えると、足は次第に重くなった。
 出てはいけない部屋を出て、会ってはならない人と会い、これ以上、諌名はどうしようというのだろう。
 諌名の歩みが完全に止まった。
 それを不審に思ったのか、少年は諌名を振り返った。問おうとして口を開き書けた諌名は、彼の顔色が更に良くないことに気がついて、少年を蔵の陰へと引っ張っていった。
「なぁに、どうしたの?」
「気が向いたら、と言ったでしょう」
 少年が首を傾げたので、さっきの、血のお話でと補足した。すると少年は理解したのか、ああと言った。
「それが、どうかした?」
「血を飲む訳じゃないのなら、どうして私を連れて行くの?」
「気に入ったからだけど」
 あっさりと、彼はそう言った。
 黙ってしまった諌名を見て、少年は目を細めた。
「諌名ちゃんがすっごい気に入ったから、俺のものにしようと思ってね?」
「……気に入ったの」
「うん。それに、気が向いたらとは言ったけど、多分吸血はするよ」
「……吸血を、するの」
「うん、吸血。するよ」
 諌名は、すっと息を吸い込んだ。
 そして、吸い込んだ息に見合わないような微かな声量で囁く。
「私の血は、きっと毒よ」
「毒でも」
「だって、死ぬかもしれないわ」
「死ぬかもしれなくても」
 まだ言いつのろうと口を開けた諌名を遮るように、貴臣は重ねた。
「諌名ちゃんが泣いても嫌がっても、無理矢理飲むと思うよ」
 どうして。
 そう思ったのを察したように、少年はあまく笑った。
 まるで愛おしむような、諌名がこれまで向けられたことがないような表情で。
「俺ね、吸血鬼のくせに吸血したことねーの。人からもらって飲んだ血は全然おいしくなくて全部吐いちゃうし」
 それは、
 つらいのではなかろうか、と諌名はわずかに目を細めた。
 日光が嫌いなのに陽の光を浴びて、血を飲むこともできない吸血鬼。
 何を見定めようとしたわけでもなかったけれど、唐突に、いまこのひとの心の中を見透せたならよかったのにと思った。そうしたらきっと、何と言えばいいのかわかるのに。諌名は言葉が出てこない。それは諌名が言葉を知らないからだろうか。それとも、本当はあるはずのことばを探し出すことができないのだろうか。
 少年は、諌名の首のあたりに視線をおとした。
「でも、諌名ちゃんは、おいしそうだと思ったんだよ」
 ぴり、と、見られた肌が撫でられるような気配がした。反射で思わず身を引いたが、掴まれた手首はすこしも動かずに、ああ囚われているのだと思った。
 わたしは囚われてしまったのだ。
 小さく息を――温度を持った、息を、吐く。
 掴まれた手首、その境界線が、熱を持ったような気がした。
「今も噛みたいよ、諌名ちゃん」
 そう言った少年の瞳が一瞬だけあかく綺麗に光ったような気がして、諌名はじっと見つめたのだけれど、それは二度は起こらなかった。
 数秒黙って諌名を見ていた少年は、切り替えるようにぱたりと笑った。
「まあ、もしおいしくなかったら嫌だから、今はやめとくけどね?」
 理由、わかった? と聞かれて、諌名は小さく息を吐いた。
「諌名ちゃん?」
 名前を呼ばれて、諌名は答えるように瞬いた。
 少年に掴まれた右手の指先がわずかに抵抗するように動いて。まるで手首しかないような気分になっていたので、自分の指が動くこと、それがなぜだかとても不自然に感じた。少年と触れた部分だけが諌名として存在しているような、そんな感覚がたしかにあったのだ。
 それをなんと言うのか、知らないけれど。
 無くなってしまったら、さみしいと――思った。
 ああ、もうわたしにはどうすることもできないのだと気づいて、諌名はそっと目を伏せた。
 行こうかと手を引かれて、諌名はそれに頷いた。
「……ええ」
 行くわ。
 ああ、わたしの喉が、存在している。
 生まれてはじめてそれを確信して、諌名は再びその少年と歩き始めた。
 おいしそうだと思った、少年の口から出たその言葉を甘く胸に抱きながら。






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