市倉を連れてリビングに戻ると、「誰だった?」とか言いながらこちらを振り返った貴臣が驚いたように目を見開いた。
「あ?」
「おはよう貴臣。今日から定期テストだから、制服着替えてくれる?」
ああ。
諌名はひそかに納得した。
それで、市倉がわざわざ来たのか。
諌名は九条の家の格についてはよく知らないのだけれど、五味家は貴臣の家と同格、九条で最も高貴とされる血筋とされていることくらいは知っていた。そのせいかはわからないが、昔から貴臣を学校だのなんだのに引っ張り出すのは市倉の役目だったようだ。しかし、市倉くらいでなければ貴臣を引き出せないことは確かである。
もうひとり同格はいるけれど、彼は貴臣と仲が悪いので家に来たことは一度もなかった。
貴臣は市倉を鬱陶しげに睨んで、見るからに面倒くさそうな顔で顎をあげる。
「やだ」
「だめ」
「やだっつってんだろーが」
「やだじゃないっつってんでしょうが。今日来なかったら留年で諌名ちゃんと同級生だよ、貴臣」
そう言われて、貴臣は眉を顰めて体を起こした。首を傾けて、喧嘩を売るように問いかける。
「何、マジで言ってんの? 今? ンだよもォ諌名といいお前といいさァ、何で昨日教えねぇんだよ」
子供が見たら泣きそうな顔だったが、市倉は笑顔をすこしも崩さなかった。
「予告したらどっか逃げる奴がそういう事言うわけ?」
「……やだやだ嫌だ行きたくない、寝てねーもん今日めんどくさい! しかも晴れてんじゃねーかよ、死ぬっ」
「だめ」
「……諌名、何か言って」
こっちに話題は来ないなと思って油断しきっていた諌名は一瞬だけ固まって、そして、ぼそっと呟く。
「……制服、部屋にあるわよ」
「え? 何でそんなこと言うの? 止めろよ市倉を、俺が死ぬよ、死んじゃうよ諌名ちゃん、いいのー?」
そんなことを言われても困る。
諌名は黙って貴臣を見た。
留年してもいいなら別に行かなくてもいいと思うけれど――まあ、普段の授業をサボり通しているのだからテストの時くらいは行ってもいいんじゃないか、とは、思う。
でも、どうせ諌名は貴臣がしたいようにすればいいと思ってしまうのだし、やっぱり諌名に聞くのは間違いだ。諌名が貴臣にしてほしいことなんてあんまりないし、今なんてまさにそうだった。
「……好きにしたらいいと思う」
躊躇いがちにそう言うと、貴臣は頬をふくらました。
「あっそォ」
ああ、拗ねさせた。
何か言おうと思って口を開くと、貴臣はぶすっとしたまま立ち上がった。
「着替える」
「あ、行くんだ」
市倉が面白がるようにそう言った。
「諌名ちゃんと同じ学年とかやだしィ」
引き留めてくれなかったし。
そう言って、貴臣は自分の部屋に引っ込んだ。
……何よ。
「あー、面白いものを見た」
市倉にそう言われて、諌名は少しふくれながらそちらを見た。
「……引き留めて欲しかったなら、そう言うべきだと思うわ」
「いや、言ってたけどね、貴臣」
そう、だっただろうか。
さっきの貴臣の言葉を頭の中で繰り返して、そう言えば止めろよと言っていたなと思い出す。
「……わかりづらいのよ」
「まあそれよりも。ありがとう、諌名ちゃん」
言葉の意味がわからなくて、諌名は首を傾けた。
「どういうこと?」
「いやー、諌名ちゃんの言葉で貴臣は行くのを決めたわけだから?」
市倉はくすくす笑った。
「ほんと、仲いいね」
自分が少し苦い顔をしていることを自覚して、諌名は市倉から視線を逸らした。
やっぱり、苦手だ。
負け惜しみのように別にと呟いて、諌名は自分の部屋に鞄を取りに戻った。
© 2008- 乙瀬蓮