目薬が差せません。


Menu


index top about blog bookmark bbs

とうめいな午後


「わたし、たまに思うのよ」
 君は、冬の寒さで赤く染まった唇を開いた。
 少し長めの前髪が、君の視線を覆い隠す。僕はいつもそれを残念に思うのだが、口に出す機会はおとずれない。
「わたしが、好きだと思ったもの。気に入った言葉。音楽。動作。行動。指先。それは、わたしだけのもので、わたし以外には意味のないものであってほしいって、そう思うの」
 君の声は、引き攣れたような息でとぎれる。それは、君がとても緊張しているとき、君が最も真摯なときを僕に知らせる信号だった。
 それがとても愛しいと思う。
「だって、わたし以外のひとが、それをわたしと同じように感じることができるというのは、まるで、わたしの結晶が薄められていくような、そんな気分なんだもの。わたしの粋が、まるで、即物的な、誰でも理解できるような、そんなものなら、わたしがとてもありふれていることになってしまう」
 ひっ、と。また、君の息が詰まる。
 その不安定な息にあわせて、真黒な髪も揺れる。長い髪の先端は緩やかに。その動きを注視して、僕は彼女がこれから何を言おうとしているのか、わかったような気がした。
「好きな人が好かれているのは。好きな人が、わたしと同じような人に好かれることが悪い事じゃないってことはわかるの。でも、それで、わたしが特別じゃなくなってしまうことは、わたしはたまらなく厭」
 だから。
 だから、と彼女は続けようとした。
「いいよ、もう」
 言わなくてもいいよ。君は以前、言わなくていいことを口が滑って言ってしまうことが嫌いだと言っていたね。だから何も言わなくていい。君の後悔の種を僕が増やしたくない。
 僕は、話を逸らすように視線を上げた。国道のとおく、みどり色をしたバスがやってきていた。
「バス、来たよ」
「きみは」
 大切につくった雪玉をコンクリートに置くときのように、君はそっと口にした。
「言わなくちゃいけないことを、口に出せないって言っていたわ」
「うん」
 今、君との間に距離を置きたくなくて。僕は揺れたこころを押し止めて。言葉を返す。
「そうだね」
「今も、そう?」
「……うん」
「そっか。じゃあ、わたしは、それだけで、いいや。きみが、わたしに言えない何か、口にできないほど大切ななにかを、わたしに対して持っていてくれた、それだけで、わたしは、」
 君は、息を止める。
「――また、言わなくていいことを、言っちゃったね。わたしは最後までこうだ」
「いいんだよ」
 バスは止まって、ドアが開く。低いステップに君は軽やかに足を乗せ、整理券を引き抜いた。
「それで、いいんだ」
 もう、聞こえているのかわからない距離。僕の小さい声では、届くかどうかわからない距離。
 それでも、言おうと思った。
「僕は、」
 口を開いたその間際、僕の言葉をバスの扉が遮蔽した。
 僕は。
 発車したバスを見送った。
 言いたかった言葉を飲み込んで。
 僕は、バスを見送った。


おともだちに捧ぐ


△top


© 2008- 乙瀬蓮